明朗会計で銀座に“革命”を起こした名物ママが波乱の人生を告白!「ホームレスや参院選候補も体験して怖い物がなくなりました」



父親の会社が倒産し極貧生活を体験

河西は幼少期、東京都調布市内の大豪邸で育った。

広い敷地の中には親戚の家が3軒並び、運転手付きの高級車が数台あったという。

祖父は大企業の経営者で、社員2000人を抱える会社を一代で築いた。

だが、裕福な生活も2代目として父親が会社を継いだころにバブルが弾けて会社が倒産。河西は11歳だった。

――その後が大変だったそうですね。

河西「土地も家も手放して引っ越しする日の直前に、父親が失踪したんです。銀座のクラブで知り合ったホステスと駆け落ちしたということを、後で知りました。以来、浮気をする男性の本性、ホステスという存在を憎むようになりました」

――そこからが極貧生活。

河西「母親は娘たち(河西には双子の妹がいる)にみじめな思いをさせたくないと、無理をして3LDKのアパートを借りてくれたんです。給料のいい土木作業員として夜通し働き、私たちを養ってくれました。また、母親の人柄なんですね、困っていると周りの人が助けてくれるんです。ご近所のお母さん方が交代で私たちの晩ご飯を作ってくれたこともあります。中学生になり、アルバイトで働いたのが洋菓子店。その頃はパティシエを目指していました。その後、精進料理人を目指して京都の萬福寺で修業をすることになるんです」

――ホームレスになっていた時期もあると聞きました。

河西「お寺で修行に入る前ですね。実は当時、化粧品などの営業職である程度のお金を稼ぐことができていたのですが、いくら稼いでも幸せにはなれない、満たされないと気づいてしまったんです。今後、どう生きようかと考えたときに、自分が『怖い』と感じるものを手放そうと。それは死ぬこと、老いること、そしてお金でした。死ぬことと老いることには逆らえないので、お金をすべて捨てようと考え、妹にあげました。そしてホームレスになったんです。場所はJR鎌倉駅前の公園。段ボールを敷いて物乞いをしながら寝泊まりしていましたね。色んな方からの施しを受け、修行に入るときも着の身着のままでしたが、独り暮らしをするための道具はいただきものであっという間に揃ったんです。そのときに思いました。『諦めないで自分さえしっかりしていれば、この日本は優しい。なんとでもなるもんだなと。じゃあ、私も困った人にはそうしてあげればいい』と。それが私の分岐点です」