「神経が図太い男でありました」妻が垣間見た左遷、暗殺未遂すらものともしなかった佐藤栄作総理の“強運”と“孤独”

佐藤栄作(首相官邸HPより)
どんなに窮地に立たされても愚痴は口にせず、筋を通す重量感あふれる総理大臣だった佐藤栄作は、東大を卒業すると鉄道省に勤めた。

それから間もなくの大正15(1926)年、寛子と結婚している。

寛子の伯父は戦前の外務大臣として高名だった松岡洋右であり、この松岡から「栄作君は将来、総理大臣になる人物」とすすめられての結婚だった。

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松岡の実姉の子が岸信介(次男)、佐藤(三男)の兄弟であり、実妹の娘が寛子である。すなわち、いとこ同士の夫婦ということになる。

佐藤は当時の鉄道省門司鉄道局に勤務し、福岡県・二日市駅の駅長となった。

寛子によると駅長時代の佐藤は、「ホームで『日豊線乗り換えーっ』と声を張り上げるのが恥ずかしいし、轢死体を見て気分が悪くなった。ラクな仕事じゃないナ」と漏らしたこともあったそうである。

佐藤はその後、在外研究生活で米・英に渡り、帰国後は鉄道省課長として上京、昭和19(1944)年には運輸通信省自動車局長に昇進するも、大阪鉄道局長へ左遷されるという憂き目も見ている。

「在外研究生活中の栄作は口ひげをたくわえていましたが、帰国後、宴席で芸者に口ひげをそらせたというのです。まぁ何をやっているか、知らぬは女房ばかりなりということかもしれませんね。左遷されたときのことは、のちに政界入りしてから、こう話したことがあります。『私には左遷があったが、これがむしろ幸いしたと受け止めている。運が向いてないときはジタバタせず、機が至ったとき一気に飛躍してみせるのが男の価値、器量だ』と。神経が図太いというか腰のすわった男ではありました」(寛子夫人)

なるほど、左遷にくじけなかったことからか、終戦翌年の昭和21年には運輸省鉄道総局長官として東京の本省に呼び戻され、当時の重要物資であった食糧、石炭などの輸送に手腕を発揮。そして、1年ほどで運輸事務次官へと昇り詰めている。