「秘書が名前を利用した…」相次ぐ“政治とカネ問題”にさらされ政権が瓦解! 宮澤喜一元首相を襲った自民党腐敗の構図

宮澤喜一元首相
非自民8党派の細川護熙連立内閣が誕生し、戦後55年体制が崩壊したのは1993年8月のことだった。

この衆院総選挙に先立つ同年5月、テレビ番組内で田原総一朗からインタビューを受けた当時の宮澤喜一首相は、「ここで政治改革ができなければ、民主主義は危機に陥る」「私はやるんです。この法案を何としても成立させたいんです」として、6月に会期末を迎える国会で「政治改革関連法」を成立させる意向を強調した。

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同年3月には東京佐川急便事件に関連して、金丸信元副総理がおよそ10億円の脱税容疑で逮捕・起訴された一件もあり、世間からは政治家に厳しい目が向けられていた。

若手議員たちからは「カネのかからない政治を目指すべき」として、小選挙区制度などを含む政治改革関連法の成立を強く望む声が上がり、これを宮澤に直談判した中には若き日の石破茂もいた。

また、自民党最大派閥である竹下派の長として君臨してきた金丸の失権は、その座を狙う者たちによる新たな権力争いを呼ぶことになり、政治改革の問題は党内における政争の道具としても使われることになった。

88年6月に発覚したリクルート事件以降、世間から厳しい目を向けられてきた「政治とカネ」の問題に決着をつけることは、同事件で容疑をかけられた一人である宮澤にとっても重大事であった。

事件発覚時に大蔵大臣だった宮澤は、リクルート・コスモス社の未公開株を譲渡されたことについて「秘書が自分の名前を利用した」と弁明し、事件との関わりを否定したが、倫理的な責任を問われて大臣を辞任していた。

政治改革は宮澤自身にとってのケジメでもあったのだ。