「秘書が名前を利用した…」相次ぐ“政治とカネ問題”にさらされ政権が瓦解! 宮澤喜一元首相を襲った自民党腐敗の構図



「嘘つき解散」で惨敗し党総裁を辞任

しかし、宮澤は党内の意見をまとめきれず、法案成立を次の国会へと先送りした。

そして、これに反発した野党から内閣不信任案が提出されると、小沢一郎、羽田孜ら多数の自民党議員たちが賛成票を投じた。

解散までの経緯から「嘘つき解散」などと揶揄されたが、これに対して宮澤は「嘘をつこうと思って嘘をついたわけではありません。結果として、なかなか難しくて思うようにならなかった」と話している。

こうして行われた衆院総選挙で、自民党は多くの離反者を出して大敗。宮澤は責任を取って党総裁を辞任した。

一連の経緯から宮澤に対しては、指導力不足を問う声もあった。

だが、自民党の分裂から選挙大敗という流れは、竹下派における権力闘争に起因する面が強く、これを宮澤のせいにするのはいささか気の毒だろう。

宮澤にしてみれば恨み言の一つも言いたいところだが、退陣のあいさつでは「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」と論語から引用しつつ、党内の融和を求め、国民の負託に応えなければならないことを強調した。

首相としての宮澤はリクルート事件の余波から政治不信が根強く残る中、経済面ではバブル崩壊直後の難局にあった。

また、90年の湾岸戦争に端を発した国連平和維持活動(PKO)への協力の是非や、世界的な貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)で求められたコメ市場の部分開放など、外交面においても歴史的難題への対処を迫られていた。

PKOは左派陣営から、コメの関税引き下げについては国内農家から強い反発があり、少しでも舵取りを間違えれば自民党そのものが消えていたかもしれない。

これらの政治結果に対する賛否はともかく、いずれも大過なく処理してきた宮澤の手腕は改めて評価されるべきだろう。