「私は選ばれたのだ」超高級クラブホステスからインドネシア大統領夫人に上り詰めたデヴィ・スカルノの武勇伝

軍事クーデターで軟禁状態に

しかし、いくら美人だからといって、夜の店で働くホステスを国家元首がおいそれと妻に迎えるとは考えづらい。そのため一説には、日本とインドネシアの貿易窓口だった人物が、デヴィを「秘書」の名目でインドネシアまで連れて行き、スカルノとの仲を取り持ったともいわれる。

つまり、デヴィとスカルノの結婚は、両国の結び付きをさらに強めようという、一種の政略結婚的な意味合いがあったとも考えられる。

インドネシアでは一夫多妻制が認められていることから、1962年に第3夫人となったデヴィは、スカルノとの結婚について「ジャカルタで見た大統領はまさに神様のような存在であり、全国民から敬愛されている姿に心を打たれました」「私は大統領から選ばれたのだ。そして、選ばれた以上は、全力で大統領にお尽くししようと思ったのです」と語っている。

だが、日本人の感覚からすると、正妻ではない第3夫人というのは、ただの愛人のようにも見える。そのため日本の一部マスコミからは、ホステスだった前歴とも合わせて、まるで「売春婦」と言わんばかりの報道がなされることもあった。

結婚から3年後の65年には、インドネシアで軍事クーデターが勃発。スカルノは失脚して軟禁状態となったが、その直前にデヴィは第1子を授かっており、日本の病院で長女を出産した。

デヴィは身の危険から日本への亡命を希望したが、日本政府はインドネシア新政府と軋轢が生じる可能性があるとして拒否。結局、デヴィはフランスへ亡命することになった。