「私は選ばれたのだ」超高級クラブホステスからインドネシア大統領夫人に上り詰めたデヴィ・スカルノの武勇伝

デヴィ・スカルノ(C)週刊実話Web
「デヴィ夫人」の本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ。出生時の名前は根本七保子で、それがどうして「デヴィ」になったのか。

彼女の結婚相手はインドネシアのスカルノ元大統領だが、同国の多数派を構成するジャワ民族は、一般的に「姓」の概念がなく、大統領の名前も「スカルノ」だけ。婚姻後には、妻の個人名に夫の名前を続けることによって、夫婦だと示す風習があるそうで、その例に倣うとデヴィ夫人の場合、本来ならば「ナオコ・スカルノ」となる。

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だが、そこでスカルノが妻の美貌を絶賛し、「聖なる宝石の妖精(ラトナ・サリ・デヴィ)」の呼び名を与えたことで、この名前が定着したという。

反植民地運動を経てインドネシアを独立に導いたスカルノは、今もなお多くの国民から「建国の父」として慕われ、最高額紙幣に肖像画が使われる立志伝中の人物である。

そんなスカルノとデヴィの出会いは、1959(昭和34)年のこと。先の大戦中から日本と親密な関係があったスカルノは、戦後も互いの国の発展のため貿易や投資など経済面での関係を続けてきた。

そんな中で訪日したスカルノが、当時の外国要人たちの社交場だった東京・赤坂の超高級クラブ『コパカバーナ』(水割り1杯が大卒の初任給レベルともいわれた)で、まだ19歳のデヴィを見初めて求婚したと、一般的には伝えられている。