「僕ぐらいビッグになっちゃうと…」大バッシングの田原俊彦傲慢発言の裏に渦巻いていたジャニーズとの確執

田原俊彦 (C)週刊実話Web
ジャニーズ事務所が芸能界における巨大勢力となったのは、田原俊彦と近藤真彦の爆発的人気によるところが大きかった。

2人はいずれ劣らぬ人気ぶりだったが、歌って踊れる田原はまさしくジャニーズの王道であり、事務所内でも別格の扱いを受けていたという。

ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)への出演で人気に火がつき、1980年に『哀愁でいと』でレコードデビューすると、以後10年にわたって37作連続でシングルチャートTOP10入り。押しも押されもせぬ80年代を代表するトップアイドルとなった。

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87年の『ラジオびんびん物語』(フジテレビ系)に始まる主演ドラマはシリーズ化され、俳優としても順風満帆。特に88年の『教師びんびん物語』(同)は、以降、連続ドラマ2シリーズ、スペシャル版が3本制作されるほどのヒット作となり、いわゆる「月9」ブームの先駆けにもなった。

こうして歌でもドラマでもヒットを連発していた田原だが、90年代の半ばになると、テレビや雑誌などのメディアからすっかり姿を消してしまう。その原因とされるのが、94年に長女が誕生した際の記者会見だ。

前年に10歳年下の向井田彩子とデキちゃった結婚した田原は、そのとき特に会見を開かなかったこともあって、長女誕生会見では冗談めかして「何事も隠密にやりたかったけど、僕ぐらいビッグになっちゃうとそうはいきません」と話した。

すると、これが一人歩きして、マスコミ上で傲慢、高飛車な発言として叩かれてしまう。

後年に出演したテレビ番組で、田原は当時の心境を「長女が生まれて、さすがに僕も生活ができないんですよ。マンションも病院も(マスコミが来て)本当に周りに迷惑がかかっちゃうし、これはちょっと表に出なきゃだめだなって」などと語っている。

つまり、あまりにもマスコミが付きまとってくるので、それを抑えるために会見を開いたというのだ。