「和田アキ子さんと三村マサカズさんに救われた」手相芸人・島田秀平のブレイク秘話


島田秀平 (C)週刊実話Web
――こうして徐々に有名になり始めるわけですが、当時のモチベーションは? 

島田「当時は今みたいにSNSもユーチューブもなかったから、ネタで結果を出すしかないんですよ。そして最終ゴールは、ゴールデンで自分の冠番組を持つこと。要はダウンタウンさんのパターンですよね。
ところが、そうやってもがいているところで『M-1グランプリ』が始まった。これで流れが一気に変わるんです」 

――『号泣』はM-1でいいところまで進むことも多かったのに、残念ながら優勝は果たせませんでした。 

島田「結局、僕らのコンビが解散したのも、M-1の決勝に進めなかったからなんです。当時のM-1は『結成から10年』が出場資格だったので。相方から『辞めたい』と言われて、それを受け入れる格好でした」 

チラシ配りの“エース” 

島田秀平 (C)週刊実話Web
――当時、生活面は?

島田「18歳で上京した頃は、もちろんボロアパートでバイト三昧でした。でも、3年目くらいでオンバトに出るようになると、学園祭とかにも呼ばれるものだから、普通に食えるようになったんですよ。ところが、関西勢の芸人がどんどん勢いを増すと、僕らは徐々に下降線をたどっていき、またバイト生活に戻るようになっていくんですね。
最後のほうは言い訳もできないくらいお金がなくなっていて、電気、ガス、水道の3つが止められるのは当たり前でした。携帯もよく止められたけど、そうするとマネジャーから来る仕事の連絡も受け取れないんですよ。あれはキツかったなぁ」

――アップダウンの激しい生活を送っていたと。

島田「リアルに生活が苦しいから、どんどんバイト中心の毎日になっていくんですよ。特にチラシ配りはアホみたいにやって、一緒に働いているおじいちゃんたちから“エース”と呼ばれていました。
たまに街ロケの仕事が入っても、ついついマンションのポストをチェックしちゃうんです。『ここなら100枚はいけるな』とか考えちゃって(笑)」