萩原健一「嵐のように激しく生きてきた」 逮捕&結婚4回の型破りな私生活

萩原健一
あまりにも有名な萩原健一のニックネームは、少年時代にダイケン、チューケンと呼ばれる不良仲間がいて、自身がショーケン(小ケン)と呼ばれていたことに由来する。

中学3年生のとき、そのダイケンが主催するパーティーでステージに立ったのが、歌手としての第一歩だった。

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パーティーに出演していたアマチュアバンドのザ・テンプターズは、その日、ボーカルが体調不良により不在で、楽器演奏のみをしていた。これが観客に不評だったことから、急きょ萩原が代役のボーカルを務めることになった。

その後、萩原はテンプターズに正式加入することになり、1967年にメジャーデビューを果たすと『神様お願い!』『エメラルドの伝説』などヒット曲を連発。萩原も一躍人気者となったが、GS(グループサウンズ)ブーム自体が急速に落ち込み、テンプターズは1970年に解散となる。

萩原は音楽活動を続けながら、活動の主体を俳優へシフト。1972年放送開始のドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)で、新人のマカロニ刑事を演じることになる。

当初、同作は萩原を主役として描かれる予定だったが、萩原自身は乗り気でなかったようで、1年での降板を希望したという。

マカロニ刑事は大人気となったが、約束通り1年で降板。萩原はその際に「劇中で死にたい」と希望し、それまでの刑事ドラマにおいて、刑事が犯人に殺されることはご法度とされていたが、あっけなく行きずりの強盗に刺殺されることになった。

この脚本もまた萩原の考えによるもので、当時のインタビューでは「きれいに死ぬなんてまっぴら。犯人もチンケなやつで、死に場所も小汚いところがいい」と話している。このリアルさが「逆に格好いい」と評判になり、以後は同番組において刑事の殉職が定番となっていった。