噓泣き疑惑にブリッコ批判、勝手に破局会見…昭和のトップアイドル・松田聖子の波乱万丈人生

松田聖子 (C)週刊実話Web
1980年10月に引退した山口百恵と入れ替わるように、松田聖子は忽然と芸能界に登場した。同年4月にCMタイアップ曲『裸足の季節』でレコードデビューすると、8月に発売された2作目『青い珊瑚礁』が、人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)で初の1位を獲得する。

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同年11月にフジテレビ系で放送された『日本歌謡大賞』では、優秀放送音楽新人賞を受賞。聖子は「ありがとうございます…」と声をしぼり出し、嗚咽交じりに歌い始めた。

しかし、応援に駆けつけた母親が顔をくしゃくしゃにした聖子に寄り添い、ハンカチで涙をぬぐおうとすると、テレビ画面に映るその顔に光るものは見られず、そのため、放送終了後には「嘘泣き」との批判が持ち上がることになった。

前髪で眉を隠したセミロングで、レイヤーカットされたサイドを外向きにブローしたヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれ、若い女性の間で大流行したものの、その半面で聖子のあざとさを「ぶりっこ」と揶揄し、嫌う声も決して少なくなかった。

それが絶対的な支持を得るようになったのは、松任谷由実(呉田軽穂のペンネームを使用)が初めて楽曲提供し、82年1月に発売された8枚目シングル『赤いスイートピー』の頃からだろう。

切ない恋心を歌った同曲は男女を問わず広く共感を呼び、聖子の代表的な一作となった。

1980年から88年まで、24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得するなど、トップアイドルとして確固たる地位を築く。しかし、それと並行して多くの熱愛スキャンダルにもまみれている。