噓泣き疑惑にブリッコ批判、勝手に破局会見…昭和のトップアイドル・松田聖子の波乱万丈人生

「今度、生まれ変わってきたときには、絶対に一緒になろうね」

中学生の頃から郷ひろみのファンだったという聖子は、デビューから間もなくして交際を開始。2人の親密な関係はすぐに公然の事実となり、84年の『NHK紅白歌合戦』では聖子と郷が手をつないで登場する演出が用意され、その仲むつまじい様子から結婚も秒読みかと思われていた。

 ところが年の明けた85年1月、突如として聖子は単独で破局会見を開く。「好きで愛し合って別れるんだから、今度、生まれ変わってきたときには、絶対に一緒になろうねって言いました」と泣きながらコメントした聖子だったが、これには集まった報道陣も、テレビ画面越しに見た視聴者も、みんなそろって頭に疑問符を浮かべることになった。

 それは交際相手とされた郷とて同じで、後日、この破局について「記者会見を見るまでフラれたことに気づいていなかった」と、聖子による一方的なものだったことを明かしている。

さらに驚くことに、この会見からわずか10日後、同年4月公開予定の映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演した神田正輝と聖子の交際が明らかとなり、6月には入籍を果たした。

 その後は妊娠、出産に伴う休養を挟みママドルとして復帰を果たすことになるのだが、さすがにアイドルとしての人気は下落。歌姫の座は中森明菜へ移っていった。

だが、そんな中、89年2月に聖子と近藤真彦との米国ニューヨークでの密会が、スクープ写真とともに報じられた。

 聖子は会見で笑顔を見せ、ただの友人だと主張したが、当時の近藤は明菜と交際していたことから、一部では「明菜への嫌がらせのために近藤を利用した」とも噂された。

そして、この件は同年7月に起きた明菜の自殺未遂騒動へとつながっていった。