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天童よしみ、昨年末の『紅白歌合戦』を語る 「最高や!」発言に込められた大阪への思い【インタビュー】

苦労した下積時代

天童よしみ
天童よしみ (C)週刊実話Web

――実際、キリギリスの天ぷらは食べましたか?

天童「衣だけいただきました(笑)。他には、大阪の新世界に連れて行かれて…昭和46(1971)年ごろかな、今のようにきれいじゃなくて、昼間から〝バクダン〟ってお酒をガーッとあおったおっちゃんが赤い顔で歩いている街でした。そこにタクシーで乗り付けて、『ここから一人で歩いてみい』って言うんです。私、まだ16歳くらいです」

――それは怖いですね。

天童「すっごい怖いですよ。『屋台で飲んでいるおっちゃんたちの前で歌って、涙を流してくれたら本物。それが演歌だから』と。それで新世界を歩いて、おっちゃんたちのいる屋台に行って、『風が吹く』を歌ったんですよ。そしたらね、おっちゃんが涙をボロボロ流したんです。『おっちゃん泣いた!』ってものすごくうれしくて、タクシーに戻って『先生、降りてえや』って言うと『俺はいいよ。泣いたんだろ。お前の言葉を信じる』って。泣いているのを見てほしいのに『分かった、分かった。よし、次に行こう』と」

――そこはちゃんと見てほしいですよね。

天童「でもね、『俺の目の黒いうちは守ってやる』という人でしたから、すごいお世話にもなりました」

――天童さんはデビューしてすぐに人気歌手になったわけじゃなく、苦労した下積み時代があったと伺っています。東京から大阪に帰り、素人さんを相手に歌謡教室をされたこともあったとか。

天童「私は嫌だったんですけど、父が『歌とつながっとけよ。つながっとかんとお前は終わる』と常に言っていましたから。でも、ファンの方から『頑張って』と、励ましの言葉をたくさんいただけてうれしかったです」

――そして1985年、『道頓堀人情』と出会いました。

天童「聴いた瞬間に『この曲を待っていた』と思いました。作詞家の若山かほる先生に、この曲は『東京から左遷されて大阪に来たサラリーマンを応援する、飲み屋のママのお話が基になっている』と伺いました。私にもすごく当てはまるし、私だけではなくて多くの人の気持ちに重なったと思うんですね。85年は阪神タイガースが日本一になった年で、『道頓堀人情』とリンクして、ものすごい盛り上がったんです。大阪が東京に勝つ、負けたらあかんっていう気持ちが噴出した時代でした。あの時代に『道頓堀人情』と出会ったのは運命だと思っているんです。出会わなければ、きっとダメだったでしょうね」