「俺はスパイクいらないんですね」万年補欠だった元高校球児・田澤健一郎が野球監督になるまで【死ぬ前にやっておくべきこと】

『鶴岡ポニー』

甲子園を夢見た異色の裏方人生

それでも野球を続けた田澤は、鶴商学園(現在の鶴岡東高校)にキャッチャーとして進学した。

「補欠も補欠ですよ。練習試合でキャッチャーが次々と怪我をしたことがあった。ベンチには俺しかいない。『俺? 俺?』って。監督もちょっと俺を見たんですよ。でも、レフトの選手にキャッチャーやらせたんだよ。高3の春には、監督がスパイクを忘れてきた有望一年生に『田澤、貸してやれ』って。『ああ、俺はスパイクいらないんですね』って。よく辞めなかったよね。でも甲子園に行きたかった。そのために、プレー以外で貢献することに全部集中しようと決めたんです」

ブルペン捕手、三塁コーチ、データ分析、下級生の指導に道具の管理。自分が試合に出てチームを勝たせるのは無理でも、勝つためにやれることはあった。なんて潔い球児の鑑なのだろうと思ったが、そうではない。本人の頭の中では早くも『熱闘甲子園』の主役回が始まっていた。

「『背番号13番の田澤君は、試合に出ることはありません』って、自分でナレーションまで考えてた。いやらしいよね。裏方になっても注目を浴びようとしている。最後の夏なんか、『山形大会で俺を使うな』と思ってた。出場ゼロで甲子園のベンチに入ってるほうが目立つから(笑)」

目論見も儚く、出場ゼロのまま、田澤の野球は終わった。その悔いを指導者で……なんて絶対に思わない。確固たる理由があった。

「まず、基本的にナメられます。俺は穏健派だったし、性格的にも怒れない。ヤンキーの多い学校だったからね。そいつらに言うことを聞かせる監督なんて、『この人に逆らったら殺される』と思わせるぐらいの怖さがないとできない。あと、勝負ごとにも弱かった。麻雀をやっても、エースや4番だったやつは強いんです。俺は勝負所を見誤る。そういうやつらと渡り合う指導者なんて、俺には絶対に向かないんですよ」

田澤は次の目標として、大学で考古学を専攻する。山形の埋蔵文化財センターで実習を重ね、将来は調査員になるつもりだった。野球は軟式の同好会で楽しめばいい。ところが、この同好会も週3日の練習に土日の試合と、遊びにしてはだいぶ忙しい。

「練習も活動も、大会の運営まで自分たちで考える。それが楽しかった。やっぱり野球が好きでね。でも俺は歴史でメシを食うんだと就職活動が始まる1997年から、野球を見ることを完全にやめた。そしたら翌年、あいつが出てきたでしょ。松坂大輔。こんなの、目なんか背けられないじゃない!」
 (中編につづく)

「週刊実話」10月22日号より