【豊臣は戦国一のブラック企業?】秀吉の無茶振りに耐え続けた秀長の"過労死説"…心労の元凶は茶々だった!?

『豊臣兄弟!』のインスタグラムより

放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(日曜夜8時〜)は、ついに羽柴秀吉(池松壮亮)と秀長(仲野太賀)が天下取りに動き出したが、「長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」とまで言われた秀長の死には今も謎が漂っている。果たして彼は何に倒れたのか——。

軍事・外交・内政…全部やらされた「万能社員」

歴史評論家が言う。

「豊臣秀長は秀吉より3歳下の弟。貧農の出から出発し、兄とともに天下統一事業の中核を担った。しかし実はその仕事量は膨大で、現代で言えばまさに"ブラック案件"のオンパレードだったのです」

四国征伐では秀吉の病欠を理由に10万超の軍勢の総大将を丸投げされ、九州征伐でも主力軍の指揮と戦後交渉を一手に担った。

さらに大和・紀伊・和泉を合わせた約110万石超の領国統治もこなしながら、諸大名と秀吉の間を取り持つ"緩衝材"役まで買って出た。

「大友宗麟が訪れた際には『公儀(政治)のことは宰相(秀長)に』と自ら秀吉のお目付け役を買って出たほど。温厚な人柄で知られたがゆえに、誰もが秀長に泣きつき、その肩に政権の重圧が積み重なり続けたのです」(同)

有馬温泉に通い詰めた男の末路

そんな激務が祟ったのか、天正14年(1586年)頃から秀長の体調は目に見えて悪化していく。

『多聞院日記』には、同年2月に摂津の有馬湯山で湯治をしたとの記録が残る。病の回復は一向に見込めず、ついに1590年(天正18年)の小田原征伐には参陣すら叶わなかった。

秀吉は9つの神社に「病平癒」を祈願させたが、その甲斐もなく翌1591年(天正19年)1月、秀長は郡山城内で52歳の生涯を終えた。

史料には「病死」としか記されておらず、正確な病名は今も不明。ただ「過労がベースにあった」という見方は、歴史研究の世界でも根強く支持されている。

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