【戦国フェイクニュース】「わしは太陽の子じゃ!」秀吉のハッタリに付き合わされた秀長が仕掛けた"最強の世論工作"

天皇を「動員」した聚楽第の一大パレード

出生伝説だけでは飽き足らず、秀吉は天皇をも世論工作に組み込んだ。

1588年(天正16年)4月、秀吉は自ら築いた豪壮な城郭邸宅・聚楽第に後陽成天皇を招き、5日間にわたる空前絶後の行幸を演出した。

行幸の行列は先頭が聚楽第に着いても最後尾がまだ御所を出発していないほどの規模で、諸大名は天皇の前で「秀吉に背かない」という誓いの起請文を提出させられた。

天皇を「動かす」ことで、秀吉への絶対服従を天下に刷り込む—――現代でいえば、国家元首を自分のオフィスへ来させ、全役員に「このCEOに従います」と署名させるようなものだ。

「兄のハッタリ係」を引き受けた秀長の苦労

では、こうした壮大な世論工作の実務を誰が支えたのか――弟・秀長である。

「内々の儀は利休に、公儀の事は秀長に」という言葉が示す通り、豊臣政権の公的業務の最高責任者は秀長だった。

兄が次々と打ち出す大風呂敷の「公式設定」を各大名・朝廷・近隣諸国に向けて矛盾なく運用し、諸大名の不満を吸収し、外交の現場で辻褄を合わせ続ける――それが秀長に課せられた役割だった。

「秀吉の補佐役」とはかなりのハードワークだったのではないかと指摘する歴史家もいる。

「日輪の子」伝説が独り歩きし始めた頃、その"設定の矛盾"を各所からの問い合わせで捌いていたのは間違いなく秀長だったはずだ。

大村由己が書いた伝記の内容が巻によって変わり、出自の説明が「低い身分」から「天皇落胤」へと都合よく書き換えられていった事実は、豊臣政権がいかに「情報管理」に腐心していたかを示している。

400年前の「フェイクニュース」が教えること

SNS全盛の今、情報操作やブランディング戦略はより洗練され、より速く拡散する。

しかしその本質、「出自や弱点を物語で上書きし、権威のある存在を巻き込み、繰り返し語ることで真実化する」者は現代でも絶えず、秀吉の手法と何も変わっていない。

「歴史」とは、勝者が書いた物語であると言われるが、いつの時代もそこにはこうした“ハッタリ”が少なからず混じっているのだ。

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