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田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part9~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part9~政治評論家・小林吉弥 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

「人間万事塞翁が馬」。ことわざにあるように、人生、何が幸いするかは分からない。禍福は一定することなく、ある日、福が禍に転じ、禍が福に変わる。予測、計算は、ともすれば外れることになっている。

禍と思っていたことが、福に転じる。それにより、人生に弾みをつけることになる。これを世は「強運」と呼んでいる。田中角栄は、まさにそうした「強運」を背負っていた人物でもあった。

2歳のときジフテリアにかかり、高熱を発して生死不明になった。この大病により少年期は吃音症になったが、その後は奇跡的に健康となった。やがて海軍士官を夢見て、海軍兵学校の入学試験で優秀な成績を修めたものの、これは家庭の事情で入学を断念した。

もし「海兵」に入っていれば、青年士官として太平洋戦争の渦中に投入され、命を落としていた可能性もあった。そして、冬は極寒、ツンドラ大原野の北満州へ応召された際も、幸い実戦に参加することがなかったのである。

加えて、生死をさまよう重症のクルップス肺炎に右乾性胸膜炎を併発し、内地送還から除隊となった。内地送還中に奇跡的な快方に転じたが、除隊とならず再び前戦に復帰していれば、太平洋戦争の南方戦線へ配属されていた可能性も高く、それがまた死と背中合わせであったことは言うまでもない。こうしてツキに恵まれた除隊後の田中には、さらに「強運」が背中を押したのだった。

昭和16年10月5日早朝、田中は約半年を過ごした仙台陸軍病院宮城野原分院を正式に退院した。その足で、仙台駅から列車で福島県の郡山駅に出て、磐越西線に乗り換え、新津を経由して新潟県刈羽郡二田村(現・西山町)の実家に向かった。このときの〝手土産〟はバターであった。家族の栄養、健康を思いはかる田中らしい手土産であった。

寝る暇もないほど多忙な日々の連続

牛馬商の父・角次の事業運も上昇し、すでに7人きょうだいのトシエら2人の妹は世を去っていたが、2番目と末の妹2人は娘らしく成長していた。母・フメは元気で、まずは田中も胸をなで下ろしたものだった。結局、わが家には7日まで3泊し、8日朝には慌ただしく上越線回り上野行きの列車に乗っている。

なぜならば、軍需景気が沸き立ち、田中は応召で開店休業状態だった建築設計、工事請負の仕事を一刻も早くフル回転させねばならなかった。また、かつて知遇を得た理研コンツェルン総帥・大河内正敏(子爵・貴族院議員)の関係を生かし、理研各社へのあいさつ回りにも精を出す必要があった。

さて、帰京した田中は、内務省出入りの土建業者だった坂本木平という人物の家敷の一角を借り、ここを事務所として、まずは「田中建築事務所」の看板を掲げた。仕事は順調すぎるほど順調で、その事務所もすぐ手狭になり、いまのJR飯田橋駅のそばの材木屋を買い取り、ここで事務所を新築した。

また、理研事業団への出入り業者としても復活、さらに、家主だった坂本家のツテで内務省はじめ官庁の仕事も増えていった。まさに、寝る暇もないほど多忙な日々の連続であった。

こうした中の昭和17年元日、田中は社員と事務所に近い花街・神楽坂にあるうなぎ屋「志満金」(現在も神楽坂通りで盛業中)で、新年宴会をやった。しかし、忙しくて理髪店にも行けない状態である。ために、うなぎ屋へ顔を出す前に、行きつけだった理髪店で散髪した。

美人の店員が数人おり、いつも「美代ちゃん」が田中の髭を剃ったりの係であった。ウトウトしていた田中は、「ハイ、お待ちどうさま」の声で目を覚ますと、店員たちにお年玉を渡すや店を出て、うなぎ屋へ向かった。

ところが、「志満金」で座敷に通されると、何かがおかしい。お酌に出てくる女の子の誰もが、田中の顔を見るとクスクスと笑うのである。田中はトイレに立ち、洗面所の鏡を見て驚いた。ナント、鼻の下にチョビ髭があるではないか。

破竹の勢いの事業拡大

美代ちゃんのちょっとしたイタズラだったが、鏡の前で田中は一人うなずいたものだった。「結構、似合うナ」。時に、田中角栄社長24歳。以後、このチョビ髭は、波乱の人生を共にすることになる。

一方、この正月には年賀で、新社屋に移る前に事務所を借りていた坂本家を訪ねている。ここで8歳年上、離婚歴はあるものの口数が少なく働き者でもあった坂本家の一人娘、ハナを見染めることになり、3月3日の桃の節句に2人は結ばれた。折りから戦況も苛烈、結婚式も披露宴もない「結婚」だったのである。

その年の暮れに長男・正法が(その後、5歳で病死)、翌々年には長女・真紀子(のちに外務大臣)が誕生した。

そのうえで事業はいよいよ順調で、昭和18年12月には個人事務所を株式会社に組織変更、資本金19万5000円(現在の貨幣価値で約2億円)の「田中土建工業株式会社」とした。田中土建は前年度の年間施工実績で、全国50位以内にランクされるほど業績は上昇一途だったが、この裏には19年1月、国の「企業整備措置要綱」が発令され、軍事関連工業の企業系列整備が行われたことが大きかった。

この結果、軍需省の指導により、田中はいくつかの弱小業者を吸収合併していった。事業への才覚と合わせ、この整備統合により、田中土建の業績は破竹の勢いで伸びていったのである。

ついには、軍の要請により、国内の軍需工場を朝鮮・大田に移転させるという大工事(現在の工事費で約130億円相当)が舞い込み、その後の終戦を待って、田中はそのうちの数十億円分の現金を持って帰国したともされている。これが〝原資〟となり、田中は戦後事業のさらなる拡大、ひいては政治家としての階段をのぼっていくことになる。

(本文中敬称略/Part10に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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