『豊臣兄弟!』も仰天!? 裏切り、暗殺、虐殺…戦国武将の「卑劣度」ランキング!【豊臣兄弟!トリビア】

【第3位】徳川家康
秀吉への誓いを死後すぐに反故! “狸おやじ“の冷血シナリオ

晩年の“裏表”のある性格は超有名

秀吉が死の床で「秀頼を頼む」と涙ながらに訴えると、家康は「命にかけてお守りします」と約束したと伝わるが、その直後から動き出したのが、豊臣家から天下を奪うための「巧妙なシナリオ」だった。
秀吉は遺言で諸大名の政略結婚を禁じていたが、慶長4年(1599年)、家康は秀吉の死後わずか1年でこれを公然と破り、諸大名との縁組を進めたことが発覚。さらに関ヶ原の戦いを経て豊臣家の実権を握ると、最終的に大坂夏の陣で秀頼・淀殿を自害に追い込み、豊臣家を滅亡させた。
「秀吉の死後に好機とみて、天下を奪った」のか「生前から裏切るつもりだったのか」——その真意はともかく、誓約を反故にして恩人の遺児を滅ぼした事実は「狸おやじ」の異名とともに後世まで語り継がれている。

【第2位】豊臣秀吉
甥・秀次の一族30余名を三条河原で虐殺! 晩年の天下人が見せた「狂気」

豊臣兄弟も卑劣さでは負けていなかった!?

大河ドラマでは親しみやすい天下人として描かれることの多い豊臣秀吉だが、晩年には目を覆いたくなるような暴虐の記録が残っている。
文禄4年(1595年)、秀吉は実子・秀頼誕生後に邪魔になった甥の関白・豊臣秀次を謀反の疑いで高野山に蟄居させ、その後切腹させた。しかもそれだけでは飽き足らず、秀次の妻妾・子どもら30余名を京の三条河原で、公開処刑したのである。
1歳から9歳の幼子を含む妻妾が次々と刺殺されるあまりの惨状に、見物の観衆からも奉行に対して罵詈雑言が飛び交ったという。
秀次に謀反の確たる証拠はなく、近年の研究では「秀頼への家督譲渡のための謀殺」との見方が強い。秀吉の命で朝鮮に大軍が送られた「文禄・慶長の役」も加えれば、晩年の天下人が犯した「罪」の深さは計り知れない。