もし秀長が長生きしていたら徳川幕府は誕生しなかった? 「実務の天才」が握っていた日本の命運【豊臣兄弟!トリビア】

仲野太賀(C)週刊実話Web


現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』が好調だ。仲野太賀演じる豊臣秀長が、池松壮亮扮する兄・秀吉の破天荒な決断に「兄者、それはいけませぬ」とため息交じりに食い止める。その姿にSNSでは「理想のナンバー2」「秀長が上司なら辞めなかった」と共感の声が広がっている。

だが、歴史ファンの間で改めて注目されているのは、秀長の人物像だけではない。

「もし秀長が長生きしていたら、徳川幕府は成立していなかったのではないか」

そんな大胆な歴史の“if”が、近年あらためて議論されているのだ。

豊臣政権を陰で支えた「もう一人の天下人」の実像を、歴史研究の視点から読み解いてみた。

「豊臣政権の宰相」――秀長が担った調整役

豊臣秀長が大和郡山城で病没したのは、1591年。この出来事が、豊臣政権にとって大きな転機になったと見る研究者は少なくない。

秀長は、単なる弟ではなかった。戦場では軍を率い、政治では諸大名との調整役を担う――いわば豊臣政権の「宰相」的存在だったのである。

とりわけ重要だったのが、徳川家康との関係だ。

「秀長は、家康を単なる服属大名として扱うのではなく、政権の有力パートナーとして遇していた可能性があります。家康も秀長の実務能力を高く評価していたと考えられています」(戦国史研究家)

秀長の存命中、家康は豊臣政権の枠内で比較的協調的な姿勢を保っていた。そのため一部の研究者は、秀長こそが家康との微妙なバランスを維持する“緩衝材”の役割を果たしていたと指摘する。

つまり、豊臣政権にとって秀長の死は、その均衡を大きく揺るがす出来事だったのだ。

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