もし秀長が長生きしていたら徳川幕府は誕生しなかった? 「実務の天才」が握っていた日本の命運【豊臣兄弟!トリビア】

「三成と武断派」――止める者がいなくなった家臣団

秀長の死後、豊臣政権で徐々に表面化していくのが家臣団の対立である。

石田三成を中心とする行政官僚型のグループと、加藤清正や福島正則ら武功派の大名たち。この対立は秀吉の晩年から深まり、秀吉の死後には政権内部の大きな火種となった。

「秀長は豊臣一門の長老として両派から一定の信頼を得ていました。三成の理屈を理解しつつ、武断派の不満も受け止める。そうした“調整型リーダー”がいなくなったことは、政権にとって大きな痛手でした」(歴史専門誌デスク)

この分裂が後に徳川家康に有利な政治状況を生み、最終的には関ヶ原の戦いへとつながっていく。

秀長の存命なら「秀次事件」は防げたのか

もう一つ、秀長の不在が影響した可能性が指摘される事件がある。それが、1595年に起きた豊臣秀次事件だ。

関白だった秀吉の甥・秀次は突如として切腹を命じられ、一族まで処刑されるという悲劇に発展した。この事件は豊臣政権に深刻な動揺を与えただけでなく、後継体制を大きく揺るがせた。

「秀吉に真正面から意見できた数少ない人物が秀長でした。彼が存命であれば、少なくとも事態は違う形になっていた可能性はあるでしょう」(同)

もちろん、これはあくまで仮説に過ぎない。だが秀長が秀吉の最も信頼する助言者の一人だったことは、多くの史料が示している。

そのためか、もし秀長があと10年長く生きていたら、家臣団の対立は抑えられたのだろうか。家康との関係は? そして関ヶ原の戦いは起きていただろうかと“もう一つの戦国史”を夢想する声が止まないのである。

一部の研究者は、豊臣政権が徳川家を含む有力大名による合議制政権として長く続いた可能性を指摘する。

その場合、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くという歴史も、違った形になっていたかもしれない。

仲野太賀がドラマで見せる「気遣い」と「忍耐」の一挙手一投足が、実は日本の運命を握っていた――。その重みを感じなつつ視聴すれば、彼が世を去るシーンは、まさに「豊臣滅亡への序曲」として、より重く心に響くことだろう。