「松坂大輔の快投で決意」スポーツ記者・樫本ゆきが語る“仕事と人生の転機”

樫本ゆき(C)週刊実話Web
村瀬秀信氏による人気連載「死ぬ前にやっておくべきこと」。今回は高校野球を追い続けているスポーツライターの樫本ゆき氏をインタビュー(後編)。高校野球に対する熱い思いや自身のキャリアについて、たっぷり語っていただいた。

「若い女性記者なんて珍しかった」偏見との闘い

甲子園デビューとなった1995年のセンバツは1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件が起きた激動の中での開催であった。

「前の年の年末から、取材を始めていたんですけど、1月17日の地震で神戸・西宮が大きな被害を受けて、甲子園が中止になる可能性もありました。誌面は被災地の球児を取り上げることになり、編集長から『行けるか?』と聞かれて迷いはなかったです。それで3月20日に甲子園に着いたら、地下鉄サリン事件のニュースが耳に入った。会社があるのは築地ですからね。幸い被害はなかったけど…周辺の家屋はまだ倒壊したままのところもあったし、忘れられないですね」

’95年センバツは福留孝介(PL学園)らが活躍した大会だ。やるべき仕事は社員になって変わるものはなかったが、ついに読者ページ以外の冠コーナー『ユキネーの甲子園日記』が始まった。

自虐も厭わぬギャグ全開のキャラクターと、同人誌仕込みのオール手書きの細かさで作り込んだ悲願の仕事は、当然、寝る時間もないほどの激務となる。

「当時は徹夜作業も普通にありましたし、なんであんなに忙しかったんだろうと思うぐらい、ずっと仕事をしていましたね。甲子園での取材も、うちの雑誌は地方だけ担当すればいいわけじゃないので全部の試合を観るし、全部の学校を取材しなきゃならない。それを2人の記者でやるので、まぁ、大変でした(笑)。でも取材はやっぱり面白いからね。『生の声を聞くぞ!』と開会式から駆けずり回ってね。当時は若い女性記者なんて珍しいから、高野連の人や監督さんに嫌がられるんですよ。怒られたり、怒鳴られたり…選手は好意的に話をしてくれるんですけど向こう側で監督がカンカンに怒ってる(笑)。ビクビクですよ。今みたいにウエルカムな空気はまったくなかったですからね」

それでも、怒られた甲斐はあった。ユキネーの意地と根性の結晶となったページは、編集部だけでなく、読者や野球部員からも評判を得た。

その後も突撃根性と面白の誌面づくりで、ユキネーの名前は次第に球児の間でも知られる存在となっていく。その裏側には高校野球という閉鎖的な社会においての若い女性記者という偏見に屈しない根性と努力が必要だった。

「話を聞くためには野球を勉強するのは当然、その選手のこともちょっと調べるだけじゃなくて、実際に足を運んで試合はもちろん、練習からしっかり観察して話を聞きに行くんです。横浜高校は取材拒否されてもよく行ったなぁ(笑)。マツ(松坂大輔)が怪物になる前の2年生のとき、初めてインタビューしたときは、恥ずかしいのかずっと名刺を見て目を合わせてくれないの。3年夏の決勝戦で対戦した京都成章の吉見太一くんは、腕を骨折して試合に出られない苦しいときに取材をしていて、編集部に『ケガが治りました』ってお手紙をくれたりね。そういう思い出がいっぱいあります」

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