「どうしてもここで働きたい」高校野球一筋の女子高生が専門誌『輝け甲子園の星』編集者になるまで

恩人の『輝け甲子園の星』編集長との出会い

『輝け甲子園の星』の観戦記コーナー(C)週刊実話Web

このとき、ユキネーは重大なミスを犯していた。『輝け甲子園の星』は日刊スポーツの隣のビルにある「日刊スポーツ〝出版社〟」の発行だったのだ。苦労してバイトになったのに、『そんなん知らんがな!』と、折れてしまわないのがユキネーである。編集部が明らかになるや、すぐに隣のビルに直撃した。

「『ここで働きたいんです。何か手伝えることがあれば言ってください』って。みんな忙しいから最初は相手にしてくれないですよ。ニコニコして座って見ているだけ。日刊でのバイトが始まる16時前に編集部へ行って『また来ましたー』とか言って。今思うと、すごいよね(笑)。でも、そんなことを続けていたら当時の編集長、中出水勲さん(’20年他界)さん…この方は恩人なんですけど、『お前、面白いな、取材に行ってみるか』と、ハタチのときですよ。甲子園の後の“あの球児に会いに行く”みたいなモノクロの企画で、最初の取材は横浜商大高校の福田香一投手でした。1人で取材に行くんですけど、うれしいから4時間ぐらい話聞いて、写真も1枚しか掲載ないのにフィルム36枚撮りのポジフィルム3本使って。編集長が出来上がりを見て『こんなに撮って、バッカじゃねえの! しかもほとんど真っ暗じゃねえか』って言いながらも面白がってくれましてね。当時、ポジフィルムは高価で貴重だったんです。怒られるかと思ったのに、笑っていました」

居候の身ながら上々のデビュー戦を飾り、自信をつけたユキネーは、日刊スポーツ本社のバイトを辞め、正式に日刊スポーツ出版社のバイトに採用される。

当時は就職氷河期ど真ん中。編集部は欠員が出なければ社員は募集しないため、「このままフリーターでもいいや」と内勤作業に勤しんでいると、約半年後に社長に呼ばれ面接が行われた。

「自分の心は一つです」と、パンチ佐藤のごとく信念を貫き通した純愛はついにここに実を結び、’94年に正式入社。最初に任されたページが読者コーナーだった。

そう、その担当こそがこれまでE子お姉、T子お姉、Y子お姉と受け継がれてきた歴代ネーの4代目。“ユキネー”がここに誕生したのである。

「天にも昇るような気持ちでした。『ユキネー聞いて』って女の子の読者から手紙がたくさん来る。純粋にうれしくて、毎月律義に返事を書いていました。編集部に毎月500通も来るんです。本当に、お姉さんになったんだなって」

そしてユキネーの甲子園デビューを迎える、’95年春のセンバツ。その年は1月に阪神大震災、大会5日前には編集部のある築地で地下鉄サリン事件が起きるという波乱の幕開けとなった。
(後編へ続く)

取材・文/村瀬秀信

「週刊実話」2月26日号より