「平時だったら私が出馬することにはならなかった」政権を担う重責への自覚が乏しかった福田康夫の気質

福田康夫.png 161KB
永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が「歴代総理とっておきの話」を初公開。今回は福田康夫(上)をお届けする。

政治家になる気はなかった

憲政史上初となる「父子首相」の誕生であった。

福田康夫の父は、かつて田中角栄との「角福戦争」でシノギを削った福田赳夫である。

東京生まれの福田は、戦時中、父親の実家がある群馬県に疎開していたが、戦後は東京に戻り、麻布中・高を経て早稲田大学政治経済学部に入学。卒業後は丸善石油(現・コスモ石油)に入社している。

通例、政治家の子どもは物心がつくと「世襲」を意識するものだが、福田にはまったくその気がなかったようであった。サラリーマン時代に知り合い、結婚した夫人に「僕は君を政治家の女房にはしない」と“宣言”したというエピソードもあり、そのあたりからも“政治家”との距離がうかがい知れる。

じつは、父親が描いた意中の後継者は、次男の征夫であったが、その征夫が病気で政治家生活をまっとうすることが困難になり、福田はやむなく17年間勤めた丸善石油を退職し、父親の秘書になったのである。

平成2(1990)年2月、政界を引退した父親がまだ壮健だったなか、福田はその地盤を引き継ぐ形で衆院選に出馬し、初当選を飾った。このとき福田、53歳。なんとも遅咲きの政界デビューであった。

福田は初当選からの10年間、自民党内にあってまったく目立つ存在ではなかった。ところが、森(喜朗)内閣で官房長官(沖縄開発庁長官兼務)のポストに就いてから、妙に存在感を発揮し始めた。以後、後継の小泉(純一郎)内閣でも、引き続き3年半にわたって官房長官に留任している。

福田はテレビで見ていても、官房長官として特にキレのある受け答えをしていたわけではなかったが、時に飄々とユーモアを交えたりする落ち着いた口調は、国民に親しみと安心感めいたものを与えていた。【歴代総理とっておきの話】アーカイブ