「なんでこんなことが起こるんだろうと、ずっと不思議に思っていた」SympaFit代表の起業家人生に影響を与えた東大野球部での原体験

SympaFit代表・加治佐平
村瀬秀信氏による人気連載「死ぬ前までにやっておくべきこと」。今回は「血糖値」のデータを解析し、アスリートの最適なパフォーマンスを引き出す「SympaFit」の開発者である加治佐平氏をインタビュー(中編)。勝負の世界に生きるアスリートを支える彼の大きな理念とは?

人生の軸にあるものは常に野球

2019年に設立されたワールドトライアウトは3回で終了するも、加治佐平はそこで得た「血糖値データ」を基にアスリートと血糖にまつわる研究を進めていた。

’23年にはこれまで誰も成し得なかった血糖値からアスリートの最適なパフォーマンスを引き出す「SympaFit」を開発し会社も設立。ワールドトライアウトを出発点に、「アスリートのメンタルを可視化する」という新たな機軸を生み出すに至った。

“ないものは創り出す”。それは研究者の性なのか。それとも生まれついての才能なのか。振り返れば加治佐は、常に未知なる壁に挑戦し続けてきた半生だった。

「もともとはそこまでイノベーティブな人間ではないんですけどね。結果的に0を1にすることは割と得意なのかもしれないです。ないものを作りたい。こういうものがあれば面白いなというものを見つけたら、とことん行ってしまう…でも、僕の人生の軸にあるものは常に野球なんです」

加治佐の人生において、最も心を奪われたものは野球だった。子供の頃からプロ野球選手に憧れながら、中学では全国の秀才が集まる名門、ラ・サールに進学。野球部ではエースとして活躍したが、進学する高等部には硬式野球部がなかった。

「甲子園を目指して、いずれはプロに行きたい」というラ・サール生らしからぬ夢を持っていた中学3年生の加治佐は、高校に野球部を作ってほしいと学校側と交渉。“東大か医学部に行くことが正義”であるこの秀才軍団の中で、加治佐の嘆願は当然、教師や保護者からの反対に遭った。

「なんとか認めてもらうために、生徒1000人ほどの署名を集めました。それでも『3年の夏まで部活を続けるなんて受験はどうする?』と反対されまして。ラ・サールでは受験のために2年生の秋で部活は引退するんです。それでも『絶対に受験で結果を残します』と約束をして、硬式野球部を認めてもらえたんです」

グラウンドも設備も何もないところから始めた硬式野球部は、OBや在校生など多くの人たちの協力を得て次第に形ができていく。大会に参戦できたのは3年の春になっていた。だが現実は甘くなく、1回戦で加治佐は滅多打ちにされてコールド負けとなる。

だが、そこで加治佐は腐るどころか、”勝つためにはどうすればいいか”を突き詰めた。エースの加治佐は制球重視の打たせて取る投球に変え、打線は効率よく長打を出すために竹バットを振り込んだ。

その結果、夏の大会では打線が爆発し、1回戦コールド勝ちを含む3試合で25得点。エースの加治佐も粘りの投球で迎えた4回戦。鹿児島野球の“御三家”鹿児島商業を相手に互角の接戦も5対3で惜敗。この結果は野球部設立に反対してきた学校関係者だけでなく、鹿児島野球界にも大きなインパクトを残した。

「でも、ラ・サール高校野球部の本当の勝負はその後にありました。東大受験です。『必ず結果を出す』という約束をして野球部を作ったので、絶対に失敗することはできなかったのですが、やはり甘くなかったです。東大に落ちてしまいました。そこから、一浪して’98年に早稲田大学に入学するんですね。野球部にも入部して、いつか早慶戦に出られたらと考えていました」

死ぬ前にやっておくべきこと】アーカイブ