「なんでこんなことが起こるんだろうと、ずっと不思議に思っていた」SympaFit代表の起業家人生に影響を与えた東大野球部での原体験

東大野球部“移籍後”に訪れた試練

硬式野球部のないラ・サール高校に野球部を作り、エースとして奮闘した
だが、入部後、ラ・サールの恩師から「野球部を作った加治佐が東大にいかなくてどうする」と叱責を受け加治佐は目覚めた。

「そうだ。俺がここで東大を諦めてどうする。後輩たちは自分の姿を参考にする。野球部に入ってしまうと東大に入れないという前例を作ってしまうことになる」

思い立った加治佐はわずか3カ月で早稲田大学野球部を辞め、夏から猛勉強に励む。そして翌’99年、東京大学農学部に合格。野球部に入部した。

だが、問題は再び起こる。早稲田の野球部に在籍していたことが選手の引き抜きや二重在籍を防止するルールに触れ、東大野球部員としての登録がストップされたのだ。

「まったく知らなかったルールなので愕然としました。でも、ここでも人に助けられるんです。東大野球部の監督や部長、OBの人たち。メディアにも問題を取り上げてもらったおかげで、多くの人たちから応援のメールを頂きました。
『引き抜きが横行した古い時代のルールを今に適用するのは時代錯誤』と連盟にも何度も交渉してもらい、ルールは撤廃。翌年から野球部員として正式に認められました。いろんな人が支えてくれて、本当にありがたかったですね。
でも僕は入部だけで満足ではなかったんです。アホだと思われるかもしれませんが、東大に入った理由はプロ野球選手になりたいからでもあった。実力の劣る東大で他大学に勝てればプロになれる。
実際に2つ上の遠藤良平さんは8勝して日本ハムへ入団しています。僕は2年生から登板して、結局0勝9敗。でも、この神宮のマウンドが今の原体験につながるんです。
マウンドの上では自分の力以上のものが出せるいわゆるゾーンに入ったこともあれば、逆に緊張で心と体がバラバラになってストライクが入らない経験もしました。『なんでこんなことが起こるんだろう』ということは、ずっと不思議に思っていたことです」

のちに加治佐は、その正体がアドレナリンとそれに伴う血糖値の上昇であることに気が付くのだが、それはまだ先の話。大学4年生で肩を痛めた加治佐は野球を引退。人生の軸であった野球のない人生が始まろうとしていた。

(後編に続く)

取材・文/村瀬秀信

「週刊実話」1月1日号より