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引退会見後に泣いていた島田紳助~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

島田紳助と明石家さんまは、2人とも名司会者としてたくさんのレギュラー番組を抱えていた。しかも、同学年だから比べられることが多い。もちろん、2人ともしゃべくりは物凄く上手いですよ。紳助が涙もろくて演歌っぽいとすると、さんまは明るくてカリフォルニア的というのかな。

さんまは、とにかく陽気。あいつがテレビ番組に出ているだけで画面が明るくなるでしょ。だから、最初から最後までなんの心配もしないで見ていられますね。さんまは生き生きしながら楽しそうにしゃべって、会場も楽しませて、金儲けまでしてるもんね。テレビが好きなんやなと思います。人の悪口を言うわけでもないし、みんなに好かれるわけですよ。

紳助も、しゃべくりで場を沸かすのは負けてないですよ。考えて番組収録に臨んでいると思う。それに、さんまより細かい落としが上手い。

紳助が司会を務めていた『行列のできる法律相談所』や『人生が変わる1分間の深イイ話』に出させてもらったことがあるけど、俺と紳助のやり取りは漫才みたいになる。同じ釜の飯を食ってきた弟のような存在だからですかね。若手の頃から、みんなを集めて仕切るのが上手いんです。そういうのも名司会者になる素地があったんでしょうね。友だちも多いし、人にも好かれる。昔から涙もろいところも変わらないですよ。

紳助は2011年8月に緊急記者会見を開いて、人気絶頂のまま芸能界から引退した。記者会見が終わって、10分もしないうちに紳助から電話がかかってきたんです。「兄さん、見てくれましたか?」と。「見たよ。自分で決めたことだから、それでええやん。あれだけの記者会見を開いたんやし。引退して店でもやれば、いろんなお客さんも来るやろ」と言うと、電話の向こうで泣いてました。

もったいないと思うことはあるけれど…

いまでも月に1回くらいは電話で話したり、メールしたりします。去年の2月、コロナがまだここまで猛威を振るう前に大阪のリッツ・カールトンで俺の講演会があったんです。それを知った紳助から「ちょうど兄さんの誕生日(2月10日)やないですか。こっちへ来るなら誕生会しましょうよ」と連絡があった。

当日、島田一門の兄弟子である島田一の介さんがやっているお店に紳助、オール巨人、一の介さん、新喜劇の若い子たちが集まって誕生日会を開いてくれたんです。紳助に「引退したけど、漫才師になってよかったな」と声をかけると、それだけで泣くもんね。

「高校3年生の時に、兄さんたちの漫才を見てなかったら、漫才師になってません」と言うから、「あれだけのトップで辞めたんやから、かっこええやん」とほめると、また泣いてました。ホンマにそう思うんです。

徐々にテレビ番組に出なくなり、皆さんに忘れられていくよりかは、レギュラー番組をたくさん抱えて、視聴率も稼いでいる最中に引退するほうがかっこいいでしょ。もちろん、あれだけの実力がある芸人だから、いまでももったいないと思うことはあります。でも、自分で決めたことだから、しょうがないですよ。

俺も記者会見を見たときは本当に辛かったです。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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