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田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part8~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part8~政治評論家・小林吉弥 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

昭和15(1940)年11月末、田中角栄上等兵は北満州の刺すような寒気がする早朝の営庭で、突然、高熱のため倒れた。診断結果はクルップス肺炎、右乾性胸膜炎を併発しており、予想外の重症であった。

入院先を転々とした。当初、担ぎ込まれたテント張りの野戦病院から、数日後に旅団本部のある宝清陸軍病院に転院した。ここで1カ月ほど入院したあと退院。田中は、これで原隊復帰ができるだろうとにらんでいたが、その思惑は大きく外れた。その後も4カ所ほどの陸軍病院を転々とさせられ、病状が好転せずということで、ついに内地送還となったのだった。

北満州の天候とは違い、帰途の船旅となる大連の港は、春の光がまばゆかった。田中はその船板で絵葉書のような瀬戸内海の眺望を楽しみながら、やがて大阪・天保山の桟橋に到着した。

倒れてから3カ月余の昭和16年2月、天王寺の大阪日赤病院に運ばれた田中の病状は、ここでの1カ月ほどの療養で急速に快方に向かうことができた。

その入院中、郷里・新潟にいる最愛の妹・トシエが結核で重篤であることの手紙が届いた。妹思いの田中は、〈トシエを1日でも長く、この世に置いてやってください。あの子はまだ何の幸せも味わっていないのです〉と延命を祈りつつ、居ても立ってもいられなくなり、ついには外出許可をもらって北陸本線回り青森行きの急行で、二田村の実家に向かったのであった。

実家に着くと、田中の顔を見るや痩せ衰えたトシエが胸にしがみついてきた。田中は言った。

「すぐ良くなる。アニ(自分のこと。新潟では長男を指す)も胸をやられて大阪に移送されてきた。一緒に養生して早く良くなろう」

ふとトシエが寝ていた枕元に目を遣ると、西條八十の詩集が1冊置かれていた。田中が少年時代に読んだそれであった。田中は詩の一節を思い出していた。

担架のまま雪の上に放り出され…

われにやさしき兄あらば

読書に暮るる雨の午後

あつき紅茶をわれくみて

きみがみへやに

その後、田中は入院患者の兵隊が着る白衣の上に外套を重ね着しただけで、トシエに会うために新潟まで出向いた無理がたたったのか、大阪日赤病院に戻ったその夜から高熱を発症した。ここで再び転院を余儀なくされる。大陸からの傷病兵患者が大阪日赤病院に次々と送られて来るため、病床が〝満パイ〟ゆえに追い出された格好だったのだ。

転院に際して、軍医は田中にこう伝えた。

「東京の陸軍病院大蔵分院、もしくは仙台の陸軍病院宮城野原分院。どちらを選んでもよろしい」

田中はここで、どっちみち死ぬのなら新潟に近いほうがいいとして、仙台を希望した。しかし、新潟へは東京からのほうが近く、さすがの田中も重篤の妹のことなどが重なり、相当、頭が混乱していたと思われる。

仙台の陸軍病院宮城野原分院に着いたのは昭和16年4月6日。その年は雪解けが遅く、分院の周りはまだ残雪に覆われていた。

ところが、分院に着いてもすぐ病室には入れてもらえなかった。転院のための引き継ぎ事務手続きに2、3時間を要し、その間、田中が乗った担架は雪の上に放り出されたままであった。ようやく重病人用の2人部屋へ運ばれたが、隣室は空室になっていた。じつは、田中はこの〝カラクリ〟を知っていただけに、大きなショックを受けたのだった。

「奇跡」と「強運」

陸軍病院では、決まりがあった。軽症患者はかなりの大部屋に収容され、重病になると5、6人用の部屋、また、さらに重篤となると2人部屋に入ることになっていた。そして、ここでいよいよ危篤となると、2人部屋の一方の隣室を空室とするのだった。

これは、危篤となれば医師、看護婦の動きが慌ただしくなり、隣室にいる重篤患者も死におびえることになることからの〝配慮〟だった。隣室が空室の2人部屋に入れられたことで田中が大きなショックを受けたとは、こういうことだったのである。すなわち、〈俺はじつは危篤患者なのだ。死を待つ身なのか〉ということであった。

その通り、確かに田中の病状は危篤に近かった。体温は、2週間ほど40度を超えていた。その間に新潟の実家で、病いの床にあった妹・トシエの死を知らせる電報も受け取っていた。

一方で、衛生兵が田中の財布の中のカネを数え、紙幣番号も記録した。また、軍医は「食べたいものがあれば何でも食べていいぞ」と言い置いて、病室を出るといった具合だった。〈トシエ、アニも、もうすぐあとを追うから寂しくねぇぞ〉と、亡き妹へ語りかけていた田中だったのである。

ところが、入院3週間目あたりから熱が下がり始め、田中の病状は奇跡的に快方に向かうことになった。

〈トシエが、俺の宿業を背負っていってくれたのかもしれない…〉

一方で、これからさらなる転院があるだろうと思っていた田中だったが、思いがけない除隊通知を受けることになった。昭和16年10月である。

すでに、大陸では戦線が拡大しており、その年の12月8日未明には日本軍の真珠湾攻撃により日米開戦、太平洋戦争への泥沼に入っていく。

田中が仮に再び前線に復帰していれば、米・英・オランダ各国と戦火を交えることになる南方戦線へ配属される可能性もあった。

除隊とともに、田中の持ち前の「強運」ぶりが、以後、全開となっていくのである。

(本文中敬称略/Part9に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。