NewJeansはなぜ特別だったのか? ニュジおじ(死語)が考えるK-POPの停滞と音楽シーンがつまらなくなった理由

ミン・ヒジンのインスタグラムより
2020年代前半、K-POPは疑いなく世界のポップミュージックの中心にあった。チャート、SNS、ファッション、ダンス、映像表現。そのすべてを更新し続け、音楽シーンの正解を握っていたのがK-POPだった。

だが2025年、その勢いは明らかに鈍化している。完成度は高い。ヒットも出ている。それでも「語られる音楽」が減った。

この停滞を理解する鍵が、NewJeansという存在だ。

K-POPの文法からズレていたNewJeans

K-POPは極めて高度に設計された産業だった。強いコンセプト、明確な物語、完璧なシンクロダンス、自己主張の強いスター像。それらを磨き上げることで、世界市場を制してきた。

NewJeansは、その文法を真正面から否定しない代わりに、意図的に弱めていった。

楽曲は短く、静かで、フックを主張しない。歌詞はメッセージを語らず、感情の断片だけを残す。ビジュアルは完成されたアイドル像ではなく、どこにでもいそうな(しかし特別感のある)10代の空気感を演出した。

それは反K-POPではなく、K-POPが極限まで最適化された後にしか成立しない逆張りの完成形だった。

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世界がNewJeansを特別だと感じた理由

NewJeansの音楽自体は、決して革新的ではない。基本的には90年代~2000年代のR&BやUKガラージ、ミニマルなビートを基調としている。

どこか懐かしいサウンドに世界が反応したのは、彼女たちが「説明しないポップ」を持ち込んだからだ。

近年のK-POPは前述の通り、曲の意味、世界観、コンセプトを過剰なまでに言語化してきた。

一方でNewJeansはそれを放棄。MVも歌詞も意味を回収しない。考察も強要しない。情報過多の時代において、この「空白」が新しかった。

NewJeans不在で露呈した2025年K-POPの限界

NewJeans以降、K-POPは再び「強さ」を取り戻そうとしてきた。より激しいダンス、より攻撃的なサウンド、より分かりやすいメッセージ。だがそれは、すでに完成しきった文法の再生産に過ぎない。

技術的には完璧でも、驚きが構造的に生まれない。2025年のK-POPが停滞して見える理由は、質の低下ではなく、更新が起きない構造そのものにあるだろう。

この問題はK-POPだけに限らない。世界の音楽シーン全体が、アルゴリズムとマーケティングに最適化されすぎた。

短くて、すぐフックが来て、ソーシャルメディアで使いやすく、炎上しない。音楽は「嫌われない商品」になってしまった。

だが本来、音楽が人を熱狂させてきたのは、よく分からなさ、不快さ、説明不能な感情を含んでいたからだ。

NewJeansは「最後の例外」だった 

NewJeansは、その要素を久々にメインストリームへ持ち込んだ“例外”だった。彼女たち6人が特別だったのは、才能や完成度だけの問題ではない。

音楽が完全に管理される直前の、ほんの一瞬の隙間に現れた存在だった。

2025年の音楽が退屈に感じられるのは、新しさが枯渇したからではない。新しさが最初から管理されるものになってしまったからだ。

NewJeansは、その管理が完成する前に現れ、何も説明せずに去った。だから今も、特別に見えるのだろう。