ヤンキー路線を突っ走った中森明菜 悲劇の歌姫が抱えたドロ沼の宿命

行き場のない少女の想いを代弁したミューズ

16才で当時のアイドルの登竜門だったオーディション番組『スター誕生!』に合格、シングル『スローモーション』でデビュー。と、ここまでは“花の82年組”と呼ばれた同年代のアイドルと変わらない。問題は2作目の『少女A』だ。

チャラチャラ歌うアイドルが多いなか、全盛期の山口百恵を彷彿とさせるビブラートとドスのきいたハスキーボイスを響かせ、大ブレイクしたのだ。

この作品は、当時起こった実際の『歌舞伎町ディスコ殺人事件』をモチーフにしているとの説がある。

1982年、家出少女が歌舞伎町のディスコで、知り合った男のクルマに乗り込んで行方不明となり、翌日に絞殺死体として発見された、今もって未解決の殺人事件である。

そのイメージに、誰もがふりかえる美少女ながら、どこかさびしげな影のある明菜のイメージがハマりにハマって、『セカンド・ラブ』『飾りじゃないのよ涙は』とヤンキー路線をつっぱしった。

明菜のバックボーンをさぐっても不良少女だった過去はない。

東京の辺境ともいえる清瀬市で育ち、家庭は金銭的に恵まれているとはいえなかったが、小学校からバレエを習うなど非行とはほど遠い環境で育っている。

デビュー当初は──その後のイメージからは想像がつかないほど──ふっくらとして健康的ですらある。

だが校内暴力が吹き荒れ、深夜のゲームセンターやディスコに不良少年や家出少女がたむろした時代に、「影」どころか孤独な「闇」を感じさせる明菜は行き場のない少女の想いを代弁するミューズとなった。

松田聖子が「陽」なら、中森明菜は「陰」。80年代前半、誰もかなわなかった女王・聖子と肩をならべられたのは明菜だけだろう。