「王貞治からホームラン王を奪う」阪神入団拒否から3代目ミスタータイガースに上り詰めた田淵幸一の矜持

王貞治の14年連続本塁打王を阻止

翌年の高知・安芸キャンプ。大学時代、法大野球部で同部屋に寝起きした仲である超大型ルーキーの田淵は、早くもマスコミから大注目の的になっていた。「大学時代の仲間がプロ野球を席巻している」という現実に、不思議な高揚感があったことを覚えている。

1969年、田淵はいきなり22本塁打を放ち、新人王に輝いた。あの落合博満をして「誰にも真似できない」と言わしめた滞空時間が長く美しい放物線を描くホームランは田淵の代名詞になった。

ただ、その球歴は決して順風満帆だったわけではない。もともと巨人希望で、一時は阪神入団を拒否したことはマスコミでも報じられており、阪神ファンの印象はよくなかった。

また、ルーキーにもかかわらず入団前からスター扱いだった田淵にはチーム内からの反発も強く、村山実や江夏豊との確執など阪神名物の“お家騒動”にも何度となく巻き込まれた。

現役生活の晩年を迎えていた「2代目ミスタータイガース」の村山はマスコミの前で「プロでの実績がない奴を、なんでこんな扱いをするんだ」「田淵はキャッチングが下手」などと平気で口にした。

田淵より2歳年下で、すでに阪神の若きエースとして君臨していた江夏との距離も微妙にあり、決して歓迎されていたわけではない。

プレーヤーとしても苦難の連続だった。

意識を失うほどの死球禍やキャッチャーというポジションゆえのケガの多さ、急性腎炎による入院、なにより阪神という人気球団ゆえのプレッシャーも並大抵なものではなかっただろう。

そんなチームの中で田淵のモチベーションになっていたのが「王貞治からホームラン王を奪う」という夢だ。この夢が達成されたのは1975年のこと。同年の田淵は43本塁打を放ち、王の14年連続本塁打王を阻止して見事に初タイトルを手にした。

田淵がバッターボックスに立つと甲子園球場のスタンドが地鳴りのような歓声に包まれ、その名前を連呼した。このとき、田淵はファンから「ミスタータイガース」として認められたのだと思う。