純烈の3人がメンバー脱退、スキャンダル発覚を振り返る…7年連続紅白出場への道のり

「あんちゃんEXILE歌え~!」

純烈 (C)週刊実話Web

──最年少の後上さんは、いまの純烈を想像できましたか?
後上翔太(以下、後上)「ムード歌謡ということで声をかけてもらって、自分なりに準備してたんですけど、気付いたら踊り始めてたり、歌う場もキャバレーから気付いたら健康センターになったり(笑)。
いろんな出会いがある中で、自分たちの力ではあずかり知らない“偶然”みたいなチャンスに、そのときそのときでベストを尽くしたら、ここにたどり着いたというか」

──健康センターを主戦場に選んだのも転機でしたね。
酒井「これも偶然なんですよ。最初は知り合いの伝手をたどって、在りし日の『キャバレー・ハリウッド』('18年に閉館)に月1で出させてもらって。『あんちゃんEXILE(エグザイル)歌え~!』とか、からかわれながらね。
そこでたまたま客で来ていたテリー伊藤さんと知り合えて、ラジオ番組に呼んでもらったんです。そこから当時の『スッキリ!!』(日本テレビ系)で密着取材が放送されたんですよ('12年12月)。
スタジオで歌って、出演情報も出してもらえたんですが『キャバレー8000円より』って、主婦の皆さんの誰が行くねんと思いましたけど、その番組をたまたまスーパー銭湯のキャスティング担当とオーナーが、同時に見ててくれたんですよ」

──本当に偶然ですね!
酒井「最初は埼玉県越谷市の『ヘルシーランド らぽーれ』('12年5月閉館)です。氷川きよしさんがデビューイベントで満員にしたという伝説があって。僕らはスカスカでしたが…。
ただ、お風呂に自由に入れて、まかないのメニューも和洋中、全部ある。ちょびっとだけど、ギャラもちゃんとある。『ここ取りに行こう、レギュラーで!』と全員の意見が一致しました(笑)」

──そこから純烈が伝説になるわけですね。
酒井「地元の人が集まってくれるようになったんです。それが2〜3年続いて。300~400人のファンが大熱狂してくれて、もう会場が揺れるほどなんですけど、外に出たらいつも通りの街並みが広がっているんです。
どうすれば世の中に伝わるのか悩みましたね。ちょうどその頃、夜中の12時から翌日の昼公演の整理券を待つおばちゃんたちの行列がテレビで取り上げられて、世の中の人が気付いてくれた。そこから2年半で紅白出場の夢が叶ったんです」

──苦労も絶えなかったんでしょうね。
酒井「メンバーも多かったですし、食っていくことが難しかったです。純烈だけで食べていけるようになったのは'15年で、それでも1人15万円。
会場でポケットに入れてもらえたおひねりを集めると1万円ほどになるから、それをみんなで割ってSuicaにチャージするみたいな。おばちゃんらも、この子ら絶対に売れへんやろうけど頑張ってるからって、おひねりをくれたと思うんですよね」

──でも、紅白7年連続出場はベテランの域では?
酒井「ね、そういう感じじゃないですか。だけど、今でも握手すると『頑張ってね』とめちゃくちゃ言われるんですよ。同情というか、心配していただけるのはありがたいですよ。
『喉の調子悪そうやからアメあげるわ』とか、おじいちゃんが家で作ったタマネギを段ボールで持ってきてくれたり。デビューの頃から今に至るまで、ファンの皆さんが変わらないから、こっちも変わらないでいられるというか。スターに祭り上げられれば、それを演じるためにあえて距離感を作ったり。
そっちのほうが喜んでもらえるのかな、という考えもあるんですけど、みんながずっと『自分たちの町から出てきてくれた純烈』みたいな雰囲気で応援してくれるので、僕らも変に距離を取ったり、肩肘を張ることもなく来られた気がするんですよね」