孤高の政治家・橋本龍太郎とは何者だったのか? 田中角栄にも一歩も引かない「橋龍ダンディズム」

橋本龍太郎という政治家の“律義さ”

しかし、政権後半になると、山一證券の破綻に象徴される「平成恐慌」のなかで、先の“6大改革”のうち「財政構造」の改革でつまずいた。

すなわち財政再建を優先するあまり財政出動を拒み、これにこだわり続けたことで、平成10年(1998年)7月の参院選で大敗北、無念の引責辞任を余儀なくされるのだった。

辞任に際しては、これを引き留める声は自民党内にほとんどなく、子分のいない“孤高”の政治基盤のもろさを露呈している。

平成18年(2006年)6月4日夜、橋本は腹痛を訴え、国立国際医療センターで「腸管虚血」との診断を受けて入院、大腸の大部分を切除する手術を受けた。

その後、危篤状態が続いたが、7月1日、多臓器不全と敗血症性ショックのため死去した。68歳没。

最期の言葉は入院直後、予定されていた講演について次男の岳(前衆院議員)に語った「俺がやらなきゃなぁ」というものであった。

父親・橋本龍伍の結核性腰椎カリエスという難病から、あえて政治家としての“路線”を「厚生族」と定めた橋本だったが、死後、あえて病理解剖を許し、最期に自らの体をささげて医学貢献という道を選んでみせた。ここでは橋本という政治家の“律義さ”が知れるのである。

亡くなるまでポマードでテカテカと光る髪に代表された「橋龍ダンディズム」を崩すことはなく、スーツも少し緩めが流行したときでも、若い頃からの“三つボタン”のピッタリしたものしか身に着けようとしなかった。

橋本のポマードは、3日で1個が空になっていたという。

(本文中敬称略/次回は小渕恵三)

「週刊実話」9月18日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。