孤高の政治家・橋本龍太郎とは何者だったのか? 田中角栄にも一歩も引かない「橋龍ダンディズム」

“6大改革”を実行した橋本龍太郎

のちに竹下は、こう橋本を評している。

「橋本は政策の理解が早く、切れ味も抜群だ。
私は5回も大蔵大臣として予算を組んだが、(橋本は蔵相として)私より上手に予算をつくったし、ファンダメンタルズ(経済指標の基盤)についても、すべてわきまえている。まれに見る“仕事師”と言っていい。
とくに、党の行財政調査会長ポストでは、日本電信電話公社、日本専売公社、日本国有鉄道の「三公社」民営化、すなわち行政改革の先頭に立ち、反対派を粘り強く説得した。
瀬島龍三(時の第二次臨時行政調査会のメンバーで伊藤忠商事の特別顧問)も『見上げたものだ。橋本君じゃなかったら、とても民営化はできなかった』と絶賛していたわな。
ただし、一方で“玉にきず”もある。『怒る、威張る、すねる』の“三る”は、気をつけないといけない。評価が“孤高の政治家”どまりになってしまうわな」

その橋本は前政権の村山富市が退陣表明するのを待ち、自民党の小泉純一郎との総裁選に勝利して首相に就任した。

橋本は「仕事師」だけに2年半に及ぶ政権の前半は、とりわけリーダーシップを発揮した。アメリカのクリントン大統領との間で、沖縄の普天間飛行場の返還を「日米安保再定義」として確認、これは官僚に任せず自ら決断したとされる。

内政面では第2次内閣の発足時に、「行政」「財政構造」「金融システム」「経済構造」「社会保障構造」「教育」の“6大改革”を掲げたが、これも時代の変革による必要性を踏まえた画期的なものだった。

とりわけ「行政」については、のちの平成13年(2001年)1月に内閣府の設置、省庁の統廃合などで結実し、中央省庁は1府12省庁に再編されている。

省庁再編はそれぞれの利害得失が絡んでくるため、政治家によほどの決断力がなければ果たせるものではない。