【戦後80年】戦没者の6割が餓死か病死 日本兵の多くが無惨な最期を遂げた

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1937年(昭和12年)から始まった日中戦争、そして太平洋戦争へと戦禍が拡大したため、わが国は甚大な戦死者を出した。だが、実は死因の1位は、敵との交戦による戦死ではなかったと言われている。

戦果よりも戦死が目的化

日中戦争から太平洋戦争における日本の軍人軍属の戦没者は、約230万人にのぼる。

ただ、この戦争がより一層、悲惨な記憶として日本人の心に刻まれているのは、死者の数が膨大であるだけでなく、全戦没者の6割強が、補給が断たれたことによる餓死、病死だったからだ。

こうした無残な死にざまを、日本軍は内地の遺族にどのように伝えていたのだろうか。留意しておくべきは、日本軍が戦死者を大事に扱っていたという事実である。

日本軍の兵士が、戦場で傷を負った者や遺体を回収するために、危険を顧みず米軍陣地のすぐそばまで這い寄ってきたことが、米軍の資料に記録されている。

また、日本軍は死者を埋葬したり、あるいは火葬したり、中隊で丁重に弔いの儀式を執り行っていた。

ただ一方で、米軍の資料には、日本軍の野戦病院がきわめて不衛生であり、また、敵が近づいて早期の撤退が求められる際は、傷病者を置き去りにしていたことも記録されている。

さらに、傷病者に余力があれば、自ら銃の引き金を引くよう強く求めていたという。

これを受けて、ある歴史学者は当時の状況を以下のように分析している。

「日本軍は『死ぬまで戦え』という教えを自ら実行した死者には、実に丁重だが、生きて苦しんでいる傷病者への待遇は劣悪で、撤退時には敵の捕虜にならないよう自決を強要している。もはや戦果よりも戦死、それ自体が目的化しているかのようである」