【戦後80年】戦没者の6割が餓死か病死 日本兵の多くが無惨な最期を遂げた

戦死の公報は“作文”だった

むろん日本軍としては、こうした無残な死をありのまま遺族に伝えるわけにいかなかった。

だが、遺族にしてみれば、軍事郵便に検閲がかけられる以上、夫や息子の消息を知る手立ては、軍からの戦死の公報(死亡告知書)をおいてほかにない。

そこで日本軍は、現地の部隊から遺族に戦死の公報を送る際、部隊長の責務として「作文」していたのである。

では、その文面とはいかなるものだったのか。

1940年(昭和15年)6月10日、中国広西省(現・広西チワン族自治区)にて、陸軍の伍長が戦死した際、遺族に送られた「戦死状況概要」の文面は、以下のようなものになっている。

「弾丸雨霰の如く伍長の身辺に落下するも勇猛なる伍長は怯まず小隊の最先頭に在りて敵陣に突入見る三人の敵を刺殺一挙にして敵陣を占領す
敵は其勇壮なる奮闘に忽ち敗走せんとするを見るや同伍長は猛然之を刺殺せんと身を挺する刹那 禁墟西方第二陣地よりの敵機関銃の猛射を受け一弾不幸にして同伍長の腹部を貫通す
然共勇剛なる同伍長は尚敵に迫らんとせしが遂に其場に倒れ天皇陛下万歳を三唱とともに壮烈なる戦死を遂ぐ」

こうした作文は、中隊の「功績係」の手によるものだった。

歩兵第六連隊(名古屋)で功績係を務めた石居喜三郎氏は、上官に「とにかく、遺族の気持ちになれ。そのために多少の誇張は認めるが、要は、おまえの書く文章ひとつで参列者を泣かせるか否かだ」と言われ、「文章は自分で勝手に考えて書け」と叱咤されたという。

さらに、石居氏は遺骨についても、戦死した者の小指1本しかない場合、どう考えても足りないので、仕方なく他人の骨を拝借したことがあったと明言している。場合によっては、すべて他人の骨を流用したという。

こうしてつくられた美しいフィクションは、遺族の悲しみ、虚しさを大いに慰めたはずだ。また、真実を知っても誰も幸福にはならないとの配慮もあったに違いない。

戦時下日本のリアル』第7章「軍人たちの生活」より一部抜粋