【戦後80年】メディアの統制で軍国少年を量産した戦時下「娯楽」のリアル

浅草演芸ホール
太平洋戦争の戦時下では、さまざまな物が不足し、国民生活を疲弊させたが、そうした時代にあって庶民の息抜きとなる「娯楽」もさまざまな規制を受けた。

1937年(昭和12年)11月に内務省警保局長より出された「興行取締ニ関スル件」によれば、最近のこれらの大衆芸能は「低調卑属」なものへと堕落しており、今後は「戦地銃後ニ於(お)ケル活動ヲ茶化シテ国民ノ事変ニ対スル厳粛ナル感情ヲ傷クルガ如(ごと)キコトナキ様(よう)」指導することが盛り込まれている。

だが、そうした中でも戦地で戦う兵隊に対する娯楽の提供は別物だったようだ。

落語家や漫才師が最前線を慰問

1938年(昭和13年)1月、「兵隊落語」で売った柳家金語楼、粋曲の柳家三亀松ら人気芸人による戦線慰問団「わらわし隊」の第1陣が、北支那と中支那の2班に分かれて出発した。

隊名は戦闘機部隊の「荒鷲隊」をもじったもので、当代きっての落語家や漫才師は、現地の兵士たちを笑顔にするという重大な責務を負って最前線に赴いた。

しゃべくり漫才の横山エンタツや花菱アチャコ、夫婦漫才のミスワカナに玉松一郎は当時、吉本興業(吉本興業部)が誇る大人気の漫才ツートップである。

その人気者がやって来るとあって、慰問には兵士だけではなく軍幹部も出席し、日頃めったに笑わない高級将校も、この日だけは笑顔を見せたという。

わらわし隊は、この後も数次にわたって派遣され、戦場での危険にも怯まず、列車や軍用トラックで移動した。そして野天の舞台をいとうことなく、現地の兵士たちから大歓迎を受けた。

ただ戦時中は、ほかの大衆娯楽と同様、落語や漫才にも統制がかけられ、演目や活動などを自粛させられている。

落語界では吉原などを舞台にした廓噺(くるわばなし)や花柳もの、妾もの、美人局もの、間男もの、酒飲みもの、泥棒ものなど53本を「禁演落語」に指定したが、その代わりに倹約や防諜などをネタにして、戦意高揚のための「国策落語」を創作することになる。

古典落語の筋を戦時下に寄せてアレンジするなど、お上の顔色をうかがいながら口演を続けたのである。