【戦後80年】肉の配給は月イチ1人37グラム 当時の主婦が知恵を絞った肉レシピ

肉はぜいたく品だった…
終戦後に東京都内に乱立した闇市では、進駐軍の食堂から出た残飯をドラム缶や大鍋で煮込み、塩やカレー粉で味を付けた“残飯シチュー”が飛ぶように売れた。
戦争中でも戦時下でも食料は貴重な存在だったため、食料を節約するため、さまざまな工夫がなされていたようだ。

肉の配給は1人あたり月に37グラム

1940年(昭和15年)4月7日に農林省(現・農林水産省)は、東京をはじめ全国の主要都市で「肉なしデー」を実施することを決めた。

すでに肉はぜいたく品であるとの考えが広まっていたため、真っ先にやり玉に挙げられたのだ。

これにより毎月2回、のちには週1回、肉の販売や食堂での肉料理の提供が禁止された。

ただし、名古屋では同年5月8日から、東京では翌年の5月8日からと、多少は施行日の前後があったものの、その熱は高かったという。

「肉なしデー」の日、肉屋は一斉休業、飲食店では肉の入った料理を一切出さないという号令の下で行われ、カレーライスの中に小さな肉切れが入っていたとして、非難された飲食店もあったという。

しかし、日中戦争の長期化で食糧が不足し、すでに肉屋の店頭には牛肉が従来の3分の1、豚肉にいたってはほとんど売っていなかった。

そして“闇肉”は非常に高値で、おいそれと庶民は手を出せなかったため、実際のところ「肉なしデー」はあってもなくても同じだったという。

配給制に変わっても、肉の配給は月に1度で、量も1人37グラムまでという少なさである。