統一地方選で敗北、円高への無策批判で“ミイラ政権”に 異端の政権・村山富市を支えた家族愛

「ヨシヱ夫人あっての村山先生だった」

筆者は村山が首相になって間もなく、大分市に赴いて現地取材をした思い出がある。2人の関係者の話が残っている。

「大分市議選では、それまで社会党から右派ばかりが立候補していたが、『左派からも出す必要がある』という声が上がり、村山が担ぎ出された。
村山は『どうせ通らんから』と言って、体は使ったがカネはビタ一文使わずで、ボランティアだけの選挙をやった。この初めての選挙は、結局、落選だった。
村山は次の市議選で当選、その後、県議、代議士の道を歩むわけだが、いずれの選挙でもヨシヱ夫人は投票日の前夜に、地元で『尺間さま』と呼ばれる神社へのお参りを欠かしたことがなかったそうだ。
車で山の麓まで行き、そこから深夜の山道を登って必勝祈願をしていたのです」(大分の地元記者)

「ヨシヱ夫人あっての村山先生だったと言えるだろう。夫人はとにかく働き者で知られていた。
長く大分県庁内で職員食堂を経営していたが、毎朝4時に起きて、モンペにゴムのエプロン、長靴スタイルで卸売市場に仕入れに行っていた。
初めはリヤカーを引いて、その後、ライトバンを運転していたね。1日で1000枚の天ぷらを揚げたこともあったそうだ。
閉店後も帳簿づけやら何やらで、自宅に戻れるのは毎晩8時、9時といった具合だった。
そんな30年に及ぶ激しい仕事の無理がたたったのか、ヨシヱ夫人は村山政権が発足する8年前に腰を痛めて手術、ここでようやく食堂経営から手を引いた。
村山は若い頃、夫人を『ヨッチン』と呼び、一方で夫人は子どもたちに、『お父さんほど素晴らしい人はいないよ』と口癖のように言っていた」(支援者の古老)