47年ぶりの社会党首相・村山政権誕生の裏にあった自民党の策謀

首相就任依頼に「そりゃ、どこの国の話じゃ」

この際に村山は、一時、首相辞任の意思を固めたともっぱらだった。

そのあたりについて、後日、筆者は村山が格別の信頼を寄せ、仲が良かった自民党の後藤田正晴(元副総理)にインタビューをしている。

後藤田は、次のように語っていたものである。

「阪神・淡路大震災のとき、村山さんが首相としてどこから手をつけていいのか分からず、対応が遅れたとの批判があったが、社会党はそれまで大きな危機管理対応に直面したことがなかったので、ある意味で当然だった。
それでも村山さんには、われわれ(自民党)のバックアップを聞き入れる誠実さがあった。加えて、この件はどうするというときには、なかなかの決断力も示していた。
われわれが村山さんに首相就任を持ちかけたとき、ビックリして『そりゃ、どこの国の話じゃ』と返してきたのを覚えている。そして当初は、しきりに『弱った、弱った』と口にしていた。
結局、受けてくれたが、人物はバランス感覚に優れ、折り紙付きの誠意があり、人を押しのけて前にという人物ではなかった。
当初、水と油の自民党と社会党が一緒に仕事をしようというのだから、超短命政権もやむを得ずのところだったが、1年半の政権を維持できたのは、ひとえに彼の人柄の良さによるところが大だった。
もっとも、野党第1党の小沢一郎氏らの新進党が無気力で、攻め手を欠いていたことも大きかった」

白く長く伸びた眉毛の愛嬌と、後藤田が言った誠実さを伴って、村山は富市という名前から国民に「トンちゃん」の愛称で親しまれたものであった。

こうした村山の“現実路線”は、政権2年目になっても変わらなかった。

平成7年8月15日には総理談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」を発表した。このなかで村山は、戦前のわが国の「植民地支配と侵略」に関して、「痛切な反省」と「お詫びの気持ち」を表明した。