日本人は「食」に対して保守的だった 日中戦争、太平洋戦争の国策“節米運動”と“国策炊き”

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第二次世界大戦下のわが国では物資が不足し、国民の生活は年を追うごとに困窮していった。その中でも最も庶民を苦しめたのは、やはり食料品の欠如だろう。

スローガン「白米食をやめましょう」でデモ

1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、中国戦線にやってきた日本人は、軍人、民間人を問わず、これまで口になじんできた日本米にこだわった。日本人は「食」に対して保守的で、軍事占領地域で生産されている農作物を主食として食べなかった。

戦争の長期化で米の需要が高まると、日本は領有下の朝鮮や台湾で内地と同じ品種を栽培させ、一時は国内の米消費量が増加傾向にあった。

しかし、悪天候の影響や現地で米の消費が拡大したことに加えて、物資は軍隊に回すことが優先されたため、国内で消費する米をできるだけ節約するという“節米運動”が起こった。

1937年12月には日本婦人団体連盟が白米食廃止運動実行委員会を組織し、「白米食をやめましょう」のスローガンを掲げてデモンストレーションを行っている。

1940年5月には週に1度の“節米デー”が始まり、家庭には大豆入りコンブ飯、ニシン入りうどん飯など、ハイブリッドな飯類が氾濫していった。

7月には大阪のデパート食堂で、米の代わりにそばを海苔で巻いたそば寿司や、うどん、ジャガイモ、タマネギを油で一緒に揚げた「国策ランチ」など、珍メニューが登場している。

太平洋戦争が始まると節米運動はさらに過熱し、政府は「国策炊き」を奨励した。これは沸騰したお湯に無洗米を入れてよくかき混ぜ、膨張させてかさを増すというやり方で、炊き上がったものは通常よりも3割増しになる。もっとも増量分はほぼ水分であるが…。