「自民党は惰性のかたまり」金権政治を嫌った“ミスター政治改革”羽田孜の矜持

自民党幹事長だった田中角栄「ワシが育てる」

当初、政界入りの気はまったくなかったが、父が脳出血で倒れ、その後遺症で半身不随となったあとも議員活動を続けるなか、やむなく羽田は小田急バスを退社し、父の秘書となった。

間もなく、その父は引退を余儀なくされ、後援会は羽田の後継出馬を要請した。

バス会社を退社してから1年余の昭和44年(1969年)12月の総選挙に、羽田は自民党公認で出馬、見事トップで初当選を飾ったのだった。34歳である。

時の自民党幹事長は田中角栄で、この選挙で初当選を飾ってきた羽田と小沢一郎に対し、「この2人はワシが育てる」と明言したものだった。

やがて佐藤(栄作)派から、その田中が田中派を旗揚げする際、羽田は小沢らと共に同派に所属した。

農政への意欲が強く、第2次中曽根(康弘)改造内閣で農林水産大臣として初入閣を果たすと、“米価一本ヤリ”のそれまでの農政から、「総合農政の羽田」として“農林族”のボス格へ台頭していくのだった。

羽田の「横顔」を農水相時代から知る政治部記者が、こう語ってくれた。

「もともと温厚で気さくなのだが、農政でもこれをやるべきと思ったら、一直線で進む頑固な一面もあった。
海部(俊樹)内閣時代に、党の選挙制度調査会長になったことで政治改革に没頭、羽田の構想に周囲からは『まるで熱に浮かされてしまったようで、思い込んだら命懸けのところがある』との声があった」

まさに、こうした行動は羽田が、モットーとしてきた「ふつうの言葉の通じる政治」こそが、彼にとっての政治改革の“完結”であったと思わせたものだ。