Xで叫ぶ“日本人ファースト”のパラドックス グローバル資本主義に寄生するナショナリズムの現在

ナショナリズムは常に“外部”を必要としてきた 

この矛盾は、現代に限った話ではない。明治期のナショナリズムも、欧米的な合理主義や近代国家モデルを輸入して成り立った。 

福沢諭吉の「脱亜論」は、欧化による自国の生き残り戦略であったし、戦後保守もアメリカの庇護下で成長してきた。 

日本のナショナリズムは常に“外部を介して”自己強化してきたと言える。 

ならば、Xで日本人ファーストを叫ぶ現在の状況も、ナショナリズムの正統な形と見ることができるかもしれない。グローバルなツールを借りて、自国の優先性を主張する。これは、滑稽であると同時に、非常に現代的でもある。 

しかし、である。 

この矛盾を「わかった上で使いこなしている」のか、「気づかずに感情で叫んでいる」のかでは、意味がまるで異なる。 

前者は戦略的ナショナリズムであり、後者は単なる情緒的発露にすぎない。 

もし後者であるならば、「日本すごい」「日本を守れ」と叫ぶ言説は、グローバルな情報空間における「自己慰撫」にすぎず、むしろナショナリズムそのものを弱体化させる。 

「日本を大事にしよう」という素朴な思いを否定する必要は全くない。しかし、その言説がどのような構造の上に成り立っているか、自分がどんな装置を使って発信しているか、それに無自覚なままでは、言葉の重みは失われてしまう。