“非自民連立政権”が誕生した背景 超エリートの宮澤喜一が舐めた辛酸

「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」

宮澤は退陣にあたっての自民党両院議員総会におけるあいさつで、「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」と論語から引用しつつ、自民党になお党内の融和を求め、国民の負託に応える必要性を強調したものであった。

しかし宮澤は、なんとその5年後の小渕(恵三)政権で、大蔵大臣として“復活”する奇跡を見せた。

首相経験者が再び蔵相ポストに就いた例は、昭和初期に高橋是清がおり、この時点でじつに70年ぶりの“出来事”だったのである。

ちなみに宮澤以降は麻生太郎が、首相を務めたあと第2次安倍(晋三)政権で副総理兼財務(旧大蔵)大臣に就任している。

宮澤の5年ぶりとなる表舞台への復帰については、当時の官邸詰め記者のこんな話が残っている。

「小渕は人のよさが売りだが、税や財政については素人に近い。そこで、小渕の“政治の師”でもある竹下が、宮澤に『小渕を助けてやってくれんか』と頭を下げた。
小渕の前に橋本が首相を務めていたとき、竹下は常日頃から『橋本のあとは、もう総理の替えがないわな』と言っていたくらいで、とりわけ小渕内閣の財政運営を心配していた。
宮澤と竹下は政治手法から性格まで水と油、そりが合わなかったが、宮澤は竹下の変幻自在の政治手法に一目置き、竹下は宮澤の類いまれな問題解決能力を高く評価していた。
宮澤も振り返ってみれば、竹下派の後押しを受けて首相になったことから、あえて蔵相を引き受けることになったのだろう」

結局、宮澤は小渕内閣での2年弱に引き続き、次の森(喜朗)内閣でも約1年の蔵相・財務相として、その財政運営を支え続けた。