野村監督に“疫病神”と呼ばれた記者が「サッチー脱税騒動」を振り返る

野村監督が激怒「ワシの言うことが聞けんのか!」

特に二軍監督だった岡田彰布との確執はチーム内でも有名だった。

就任直後の高知・安芸キャンプでは、毎日2時間のミーティングをするという野村の方針に、「二軍の若い選手は夜間練習をさせてほしい」と岡田が拒否し、「ワシの言うことが聞けんのか!」と野村が激怒したこともあった。

一旦は話し合いで収まったのだが、野村のボヤキ節は言われた側の神経を逆撫でするパワハラでもあり、関係は悪化した。

「自分も岡田もアホの藤山寛美に似ている」といった軽口はまだしも、「岡田は勉強不足と感じることはないのかな。これが人気チームで育った弊害だろう。チヤホヤされて」といった発言がマスコミを介して飛び交い、2人の確執を煽っていった。

根底にあったのは野村のひがみ根性だ。

テスト生入団だった野村は南海時代から大学出のスター選手を嫌っており、言葉や態度で攻撃する様子を筆者は何度も目の当たりにしてきた。

阪神ではまだ若手だった今岡誠(現・真訪、東洋大学卒のドラフト1位)も「バント練習してこい!」と二軍に落とされるなど野村とはまったくソリが合わなかった。

二軍監督の岡田が「お前の使命はバントじゃない。バッティングで勝負しろ!」と野村の指示を無視したため、腐らずに済んだが、再び一軍昇格が決まったときには、「あの人(野村)とは野球をしたくない」と岡田に訴えたほど。

このときは岡田が「足を痛めている」と嘘の報告をしたため、今岡の造反は表面化しなかったが、こうした話がボロボロ漏れてくるのが野村阪神だった。

結局、野村は阪神でファンの期待に応えることはできなかった。

後任監督の星野仙一の下、わずか2年で優勝できたのは、星野がチーム改革を断行したからに他ならない。

その意味では野村監督時代も決して無駄ではなかったか。

【一部敬称略】

「週刊実話」6月19日号より

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吉見健明

1946年生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。法政一高で田淵幸一と正捕手を争い、法大野球部では田淵、山本浩二らと苦楽を共にした。スポニチ時代は“南海・野村監督解任”などスクープを連発した名物記者。『参謀』(森繁和著、講談社)プロデュース。著書多数。