野村監督に“疫病神”と呼ばれた記者が「サッチー脱税騒動」を振り返る

野村監督「おー、疫病神か。何も話はないぞ」

その翌日、大阪に飛んで梅田のホテルにいた野村も直撃した。

南海担当時代には愛車のリンカーンに同乗させてもらう程度には親しくしていたはずだったが、「元スポニチの吉見です」と声をかけると、「おー、疫病神か。何も話はないぞ」と取り付く島もなく行ってしまった。

野村が筆者を「疫病神」と呼んだのには訳がある。

野村が南海監督を解任されたスクープを抜いたのが筆者だからだ。

そして、このとき(1977年)も解任の原因はサッチーだった。

当時、野村の愛人だったサッチーはその立場を笠に着て選手たちに暴言を吐き、公私混同で采配にまで口を出していた。

チームが内部崩壊する中、南海の川勝傳オーナーや球団社長らが「サッチーと別れなければ監督解任」の方針を突きつけたが、野村は「野球を取るか女を取るかで、サッチーを取った」のだ。

このとき、川勝オーナーは最後まで野村をかばい続け、筆者の顔を見るたびに、「吉見くん、なんとか野村を助ける手はないか?」と口にしており、野村が南海を離れてからも「別れたか?」と気にかけていたほどだ。

もっとも、南海追放劇の頃から野村とサッチーの2人を見てきた筆者にとって、阪神での解任劇は起こるべくして起きたことだった。

そもそも、野村がサッチーを信頼するようになった要因の一つは税金対策の怪しいアドバイスだった。

外部から見れば、サッチーは2度も野村監督解任の原因を作った悪妻であり害悪でしかなかった。

だがそれでも、野村にとっては他の誰にも代え難い唯一無二の女性だったのだ。

解任のきっかけはサッチーだったが、実はそれだけが理由ではない。

野村が阪神で指揮を執った3年間はすべて最下位に沈んだことに加え、阪神名物のお家騒動に巻き込まれて求心力も失っていたからだ。