宮澤喜一は財務省でも飛び抜けた秀才であった 田中角栄が「二度と酒を飲みたくない」と吐露

10代でジョン・スチュアート・ミル『自由論』を読みこなしていた

宮澤は東京帝国大学法学部を首席で卒業、旧大蔵省に入ったのだが、当時の高等文官試験(現・国家公務員総合職試験)で行政科をパスして入省してくる者が多いなか、宮澤はなんと、もう一つ外交科もパスしてきた極め付きの秀才だった。

なるほど、米国の有力紙に「日本の政治家のなかで最も英語が達者」と報じられたように、英語力は政界随一と定評があった。

それについては、宮澤をよく知る記者からこんな話を聞いたことがあったものだ。

「10代の頃には、すでにジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(リベラリズムの古典)を読みこなしていた。また、宮澤の自宅に記者が行くと、時に宮澤は、庸子夫人と英語で会話を始めることがあった。
聞かれるとマズい話はすべて英語でやり取りするので、その記者はなんのことかさっぱり分からないことがしばしばだったそうだ。
東京女子大英文科卒の庸子夫人と宮澤は、大学時代に同じ船で日米学生会議のため渡米し、それがきっかけとなって結婚したくらいだから、夫妻そろって“英語のプロ”だったのです」

また、のちに首相となり、米国のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が来日して官邸で晩餐会が開かれた際、突然、ブッシュがイスから崩れ落ちるというハプニングが発生した。

このときの宮澤の手際のよさと英語力は、改めて話題になったものだった。

いずれにしても、宮澤は若くしてこうした語学力に加え、大蔵官僚としての鋭い分析力と実務能力の高さもあり、何をやらせても堅実に仕事をこなした。

省員の誰からも、一目置かれた存在だったのだ。

そんな宮澤は大蔵省の先輩にあたる池田の目に留まり、出世の糸口をつかんだ。

池田は当時の吉田茂首相に買われて事務次官から政界入り、代議士1年生にして大蔵大臣に大抜擢された。

その池田蔵相の秘書官として、宮澤が取り立てられたのである。

そのときの仕事ぶりは常にソツがなく、池田が首相のイスに座ると側近として、とりわけ対米交渉の舞台裏で腕を振るった。

米国の高官が「ミスター池田は小さいが、キラリと光るダイヤモンドを持っている」と、宮澤の存在をうらやましがったという逸話も残されている。