無名ながら29歳で初当選 海部俊樹の“弁舌”は何がすごかったのか?

代議士秘書と学生の“二足のワラジ”

海部と河野の仲が密になったのは、海部が先のGHQの件から中央大学に居づらくなり、早稲田大学法学部3年の編入試験を受けて、合格したことがきっかけであった。

ある日、海部が早稲田に入ったことを報告するため、河野がいる議員会館を訪ねると、こう言われた。

「雄弁会に入ったくらいだから、君は政治に興味があるのだろう。それなら、俺のところで寝起きしてみないか」

河野は雄弁会の先輩でもあり、ちょうど秘書が辞めた直後なので、やってみないかという誘いであった。ここで海部は生きた政治を勉強する願ってもないチャンスと考え、「やらせてください」と即答した。

この秘書は単なるアルバイトではなく、特別国家公務員の肩書がつく正式の秘書である。

ここで海部は秘書と“二足のワラジ”を履く、なんとも異色の学生になったのだった。

それまでの雄弁会では弊衣破帽のバンカラが主流だったが、海部は国会に出入りすることから、服装も一変、バリッとした背広、ネクタイ姿で、雄弁会の部室に現れたりしたという。

じつは、筆者も早稲田で雄弁会に籍を置いたことがあったが、同じ雄弁会の先輩で、のちに作家になった豊田行二に、こんな逸話を聞いたものである。

「髪をポマードで固めたスーツ姿の海部が部室に顔を出すと、いかにも汚い部室には不釣り合いだったことから、最初は部員からいぶかしげな目で見られていた。
ところが、海部の弁舌には逆立ちしてもかなわないことを知ると、皆、平伏したそうだ。
まさに、『海部の前に海部なく、海部の後に海部なし』が、雄弁会を取り巻く空気だったことを示している」

その海部はかく“二足のワラジ”を履きつつ、一方では早稲田大学大学院政治研究科で「比較憲法」を学ぶ。

その頃には自らの生き方を政治一本に絞っていたのか、河野に連れられ、当時、三木派の領袖だった三木武夫の自宅へ出入りするようにもなっていた。