“竹下流”とは剛速球でなくチェンジ・オブ・ペース 森喜朗に「天才」と言わしめた竹下登のリーダーシップ

本人は「組織のムードメーカー」と論評

竹下はさらりと、こう答えてくれたものであった。

「僕は、何事も説得しつつ推進し、推進しながら説得するということに徹したわな。これ以外の手は、ほぼない。みんなの意見を聞き、自分はかく思うとは言わないということだ。
このほうが、万事うまくいく。それと、人が持ってくる話でも、大方は『そうだわな』『話は分かった』くらいしか答えない場合が多い。確約してしまうと、あとで身動きが取れなくなるからだ。
僕は相手に言質を与えてしまうことには、慎重なタイプだ。また、自分から『ああしろ』『こうしろ』と指示、命令も、まずしないね。自分から積極的に方向性を示すことはしない。まぁ、人はいろいろと言うが、僕は組織のムードメーカーといったところじゃないかな」

ましてや人を怒ることなどは、とんでもないと言いたげだった。

竹下の出身校である早稲田大学の創立者、大隈重信(元首相)は気が短く、誰彼構わず怒鳴りつけたことで知られていた。

しかし、やがて首相になる頃には、この欠点がすっかり影を潜めたといわれている。

側近格だった実業家の五代友厚から、「短気は政治家として大きなマイナス」として、次のような進言を受けたからであった。

「怒気怒声を発するは、一の益あるかを聞かず。怒気怒声を発すれば、その徳望を失する原因なり」

その竹下は、しかし一方で長期政権の可能性を示唆されながら、わずか2年間で政権の座から降りることになった。

「政治とカネ」をめぐる問題、すなわちリクルート事件に連座し、平成元(1989)年6月に、退陣を余儀なくされたのである。

その独特なリーダーシップは、画竜点睛を欠く形で幕が引かれた。

竹下の退陣後、自民党の実力者2人は、こう「竹下観」を述べていた。

「政界という組織の力学を、これほど分かっている人はいなかった。その点では天才と言ってよかった」(森喜朗元首相)

「人をうまく使い、統率していく名人だった。その限りにおいては、この人の右に出る人はいなかった。さしもの田中角栄元首相も、この点では及ばなかった」(後藤田正晴元副総理)

(文中敬称略/次回は宇野宗佑)

「週刊実話」5月8・15日号より

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小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。