竹下登が“忍従の人”と言われるワケ 母からの教え「他人さまに対して、絶対に怒ってはなりません」

県議辞任の際には県庁中にあいさつ

なるほど、竹下における「忍従史」は、中央政界入りする前の島根県議時代にして、すでに全開であった。

例えば、県議2期目に入る頃には、頭脳明晰な竹下はすでに県予算に関するノウハウをすべて熟知しており、知識不足の先輩議員から“知恵袋”的な存在と目されていた。

他の議員から「この補助金は県庁のどの課と掛け合ったらラチがあくのか」と聞かれれば、直ちに「地方課がいい。○○課長に相談してはいかがか」などと教えてやるのが常であった。

また、県議会での質問原稿も、頼まれれば嫌な顔ひとつせずに代筆していた。

ある県議がこうした原稿の「肩」という字を「眉」と読んでしまい、「眉で次代が担えるのかッ」などとさんざん野次を飛ばされた。

以後、この議員に書いて渡す原稿には、漢字の隣にルビまで振っていたのである。

そのうえで竹下は、なお自分が前に出ることはしなかったのだった。

こうした「竹下流」が生きることになったのは、昭和33年(1958年)5月の総選挙であった。

竹下は旧〈島根全県区〉(定数5)からの出馬を考えたが、あえてと言うべきか、なかなか出馬の手を挙げなかった。

やがて、自民党をはじめとする保守系の島根県議らが、これまた何かと竹下に世話になっていたこともあり、自然発生的に「竹下擁立」へと動き始めた。

当時の竹下を知る古い地元記者が、こんな証言を残している。

「竹下は公示前日に、ようやく県議会に辞表を提出したが、そのあとに『ただいま県会議員を辞任してまいりました。ここまで来られたのは、すべて皆さんのおかげでした。本当にありがとう』と言って、県庁の課という課をすべて回って歩いたのです。
のちに竹下の“名文句”として知られた『汗は自分で、手柄は人に』『裏方作業にこそ汗を流せ。必ず、人から一目置かれる』の実践でもあった」