「死ぬまでに代表曲を作りたい、『上を向いて歩こう』みたいな…」プロ野球応援の革命児がたどり着いた“悟りと希望”



現在も社会人野球などに楽曲を提供

ジントシオ氏
「非常に難しい立場でした。反対意見も多かったですが、改革を支持してくれる人もいた。目標は当初の半分はできたかな。僕が辞めたあと、楽天の応援も元に戻りつつあります。応援はそういうもの。今いる応援団の人が新しい歴史を作っていく。それは、ロッテも楽天も同じ。それでいいんですよ。でもね、仙台での4年間はオレの人生でも素晴らしい時間だったんです。出会えた人はいい人が多かったし、野球に熱くて、人は優しい。オレ、この仙台で出会った人と結婚したんです。オレの第2の故郷になったんですからね」

現在は奥さんと共に出身地である東京へ戻り、一昨年には娘も誕生。「人生で最も幸せな時間を過ごしています」と、娘の写真に相好を崩す。

メインの仕事は映画やドラマなど撮影現場のスタッフとして働く一方、各方面からの作曲依頼は続き、最近も社会人野球のトヨタ自動車や近畿大学などに楽曲を提供。

独立リーグの「佐賀インドネシアドリームズ(当時)」や、NPB選手の合同引退試合「ラストゲーム」の応援団長にも起用された。

著書も出すなど、応援団に所属していたとき以上に充実した生活を送っている。

「やっと分かったんです。一人の方が自分の性に合っているって。組織に属さず、やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。応援団はいろんな人たちの思いがあります。あっちの人を立てて、こっちの人の意見を聞いてね。なんだろう、あの頃って謝ってばかりでしたね。組織を背負っていると、対立も起こります。でも人対人になれば分かり合える。今になって対立した人たちと、組織を離れて話してみると、ただの昔の仲間ですから。今は仕事も充実しているし、家庭も幸せ。30歳のときに西武園ゆうえんちの駅でレオライナーに乗ろうとしたら子供連れの中学の同級生に『まだ応援団なんてやってたんだね』って言われて負けた気がしたんです。それ、分かります? あの頃に比べたら、40代半ば、実にいい感じです。明日も朝から撮影現場に行くんですが、個人事業のペースで働いて、空いた時間で、依頼が来た応援歌をどう作ろうかって。今は本当にやりたい音楽だけを追求できています」