追悼・吉田義男さん 元スポニチ敏腕記者が“幻の田淵タイガース構想”を初公開

スポニチは村山派とされていた。対する吉田派は日刊スポーツであった。

「熱血漢のエース・村山の人気は凄かった。一方、吉田のショートでの華麗なプレーは玄人好み。スポーツ紙の扱いにも差があった。ちょうど南海の野村克也が巨人の長嶋茂雄人気にジェラシーを感じていたように、吉田の村山に対するライバル心は相当なものでしたね」(元スポーツ紙記者)

吉田氏が私に応接間で言った「スポニチに痛い目に遭わされた」の意味はこの派閥にあったのだ。

実は、阪神が日本一を手にする1985年夏にはこんなことがあった。夏の甲子園で高校野球に球場を明け渡す“死のロード”の広島遠征。私は田淵、そして不動の4番・掛布雅之らと朝まで飲み明かした。

彼らと宿舎のホテルに帰ると、エレベーターで早起きの吉田監督と出くわしてしまったのだ。

岡田阪神の日本一を見れたのが嬉しい

吉田監督から何かしら注意を受けるかと思いきや、見て見ぬふりをして誰にもお咎めはなかった。細かいことをチクチク口にするイメージを持っていたので、その寛大な一面に呆気にとられたことを思い出す。

見えない所までオシャレをするフランス仕込みのファッションセンスは「ムッシュ吉田」といわれたものだ。

これは間接的に聞いた話だが、吉田氏と親しい友人は「一昨年の岡田阪神の日本一を見れたのが嬉しいと、吉田さんは自宅で涙ぐんでいた」と言っていた。

岡田阪神の“アレンパ”は叶わなかったが、吉田氏の願いである3度目の日本一は藤川阪神に引き継がれた。合掌。

【一部敬称略】

文/スポーツジャーナリスト・吉見健明
「週刊実話」2月27日号より

吉見健明(よしみ・たけあき)

1946年生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。法政一高で田淵幸一と正捕手を争い、法大野球部では田淵、山本浩二らと苦楽を共にした。スポニチ時代は“南海・野村監督解任”などスクープを連発した名物記者。『参謀』(森繁和著、講談社)プロデュース。著書多数。